≪メッセージの要旨≫  2021年   7月 25日   聖霊降臨後第9主日

        
聖書 : 列王記下          4章 42〜44節
             詩篇            145編 10〜18節
             エフェソの信徒への手紙  3章 14〜21節
             ヨハネによる福音書     6章  1〜21節

        
説教 : 『 五つのパンと魚二匹 』   秋久 潤 牧師
            
          教会讃美歌 :  190、 386、 181、 371


イエス様が、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた「パンの奇跡」は、
マタイ(14:13-21)、マルコ(6:30-42、8:1-10)、ルカ(9:11-17)、ヨハネ(6:1-14)の各福音書に共通のものであり、
四つの福音書のどれにも共通に出てくる奇跡物語は、この「パンの奇跡」だけです。
この奇跡の記事の重要さがうかがわれます。この「パンの奇跡」の記事は、私たちに何を語っているのでしょうか。

場所は人里離れた山の中か丘の上。 時は夕方。 すでに薄暗くなっています。
大勢の群衆がイエス様の周りに集まっています。 ここで彼らのパンのことが問題になります。
マルコ福音書では、
 「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 人々を解散させてください。
   そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう
」(マルコ6:35-36)
と弟子たちがイエス様に求めますが、ヨハネ福音書では、
 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)
とイエス様がフィリポに問いかけます。 とにかくここでは、人々の食べるパンのことが配慮されています。
人はパンだけで生きるものではないが、しかし人はパンなしで生きることはできません。
ここでパンとは、広く人間の肉体を維持するのに必要なものを含めて考えることができます。
パンの欠乏──飢えが、人間にとっていかにつらい、深刻な経験でしょうか。
人々のパンに対するイエス様の配慮が、この奇跡の前提になっていることを、私たちはここで見逃すことはできません。

フィリポがイエス様に答える、
 「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。
アンデレがイエス様に言う
 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
   けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう
」(7-9節)
という言葉には、弟子たちの戸惑いと疑い、無力さが露呈しています。

「パン五つと魚二匹」──それは、わずかなもの、小さいものを象徴しているかのようです。
五千人の人々を前にして、それでは一体何の足しになるのか。
私たちが持っているのは、いつもそのようなものです。
持ち物においても、信仰においても、弟子たちは、無力な小さな群れに過ぎませんでした。

小さいものは軽く見られ、大きいものが尊重されます。
小さいことは恥ずかしく、大きいことが頼りになると、人々は駆り立てられます。

しかし、神の国はからし種ようなものである、とイエス様は言います(マルコ4:31)。
それは、地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さく、人の目にもとまらないものです。
だから人々は、つい見落としてしまい、見えないものは無いものだ、と思ってしまいます。
けれども、種が見えないからといって、無いわけではありません。
一粒のからしだねは、目には見えないが、確かに地に蒔かれてそこにあります。
無きに等しいものであっても、無ではありません。
そこに大きな力と可能性がひそんでいることを見分ける目を持つことが大切です。

 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(11節)。
 「イエスは五つのパンと二匹の魚を捕り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、
   パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された
」(マルコ6:41)とあります。
イエス様はここで、何もないところからではなく、
子どもの持っていた五つのパンを用いて、それを祝福して裂き、人々に配りました。
それがパンの奇跡を生む元になったのは意味深いことです。

私たちの手の中のもの、どんなに僅かであっても、
イエス様の前に差し出され、イエス様によって祝福され、主の御用のために用いられるとき、
一つの物が十倍にも百倍にもなると、このことは語っているのではないでしょうか。

ボンヘッファーという牧師は、次のように語ります。
 「われわれが、われわれのパンをいっしょに食べている限り、われわれは、極めて僅かのものでも満ち足りるのである。
  誰かが、自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。
  これは不思議な神の律法である。
  二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、ほかの多くの意味と並んで、
  このような意味をも持っているのではないだろうか」
   (ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1975年、62頁)。

五つのパンを持っていたのが小さな子どもであったことも、
なにか小さいもの、僅かのものということを示しているように思えますし、
この子どもが五つのパンを主の前に差し出した純真な行為が、一同に大きな刺激を呼び覚ましたのかもしれません。

人々が十分に食べた後、イエス様は弟子たちに言われます、
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(12節)。
十分に食べて満ちたとき、私たちはとかくパンを粗末に扱いがちです。
余ったものは簡単に捨てられ、そのことを当たり前と考え、感謝する心を見失ってしまいます。
確かに神の恵みは、満ち足りた十分な恵みです。
しかしパウロは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(IIコリ6:1)と戒めています。

あまりに満ち足りるとき、私たちは欠乏時の苦しい経験を忘れ、生きる厳しさを忘れてしまうことがあります。
イスラエルは、荒野の欠乏の苦しい生活を乗り越え、乳と蜜との流れるカナンの地に入った後には、
次第に初めの厳しい生活経験を忘れ、精神的弛緩と宗教的退廃の危機に何度も直面しました。
そこに預言者が、出エジプトと荒れ野の時代を思い起こすべきと繰り返し説いたことの意味があります。
恵みに満ち足りることは、恵みに慣れて無駄に費やして良いということではありません。

「残ったパンの屑を集め」る(12節)とは、ケチだということではありません。
 「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(13節)。
これは、神様の恵みが全てのものを満たして、あり余るほどに十分であったということの証しであり、
しかしそのことに慣れて、恵みを無駄に浪費しないようにという戒めでもあります。
キェルケゴールは次のように言います。
 「貧しさのために、一切れのパンくずをも無駄にしないということはありうる。
  しかしここでは、いつでも奇跡を行いたもう富める方が、同時にもっとも貧しい方であるかのように、
  パンのかけらを集めたもう。 ここに神の姿が示されている」(キェルケゴールの日記から)。

人々はイエス様のなさったこのしるしを見て、
 「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました(14節)。
いわゆる「奇跡」とは、このヨハネによる福音書では「しるし」と呼ばれています。
「しるし」という言い方が物語るのは、何かを象徴する、指し示すということです。
しるしそのものとは別にある本体を指し示して分かるようにする、そういう役割を持つのが「しるし」です。

しかし、何を表すためのしるしとして、こういう奇跡が行われるのでしょうか。
「イエス・キリストは凄い」と知らしめるために行ったのではないと思います。
もちろん、結果として驚き、イエスが凄いと思った人はいるかもしれません。
しかしこの時、大勢の人々がパンと魚で満腹になっても、やがて空腹になります。
ですから彼らは、この出来事の後、日常に戻り、何らかの形で食べ物を調達しなければなりません。

聖書がこのできごとを通して伝えようとしているのは、
主イエス・キリストは、本当の意味で私たちを養ってくださる、一時的な満腹のためだけではなく、
私たちの生きることそのものを祝福し大事にしてくださるということです。   

このパンの奇跡では、人の手の内にあるわずかな食べ物を皆に分配したわけですけれども、
究極的にはイエスご自身の全てを通して、命までもあの十字架の上にかけて、
色々な限界や問題や弱さがあっても、私たちが神に愛された者として、許された者として
生き生きと生きる者としてくださるためにイエス様はこの世界に来られました。

このパンの奇跡の後に、湖の中で船に乗って強風にあおられ、にっちもさっちもいかなくなった
弟子たちのところに、イエス様は近づいて「わたしだ。 恐れることはない」と言いました。

この船の場面で
 「彼らはイエスを船に迎え入れようとした。 すると間もなく、船は目指す地に着いた」とあります。
他の福音書ではイエス様は舟に乗るのですが(マルコ6:51)、
ヨハネ福音書ではイエス様が舟に乗った、とは書かれていないのです。
弟子たちがイエス様を舟に乗せようとすると、いつの間にか舟は目指す地に着いていた、という書き方です。

イエス様が舟に乗ろうが乗るまいが、目的地に着いたのだから良いではないか、と言えるかもしれません。
しかし、直前に大勢の人々が
 「来て、自分を王にするために連れていこうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた
という出来事と繋がっています。
群衆も、舟に乗って進めなくなっている弟子たちも、不安と困難の中にいます。
そこにイエス様は来てくださるのですが、それは私の舟にイエス様が乗り込んでくれるわけではない、
言い換えれば私の手に収まる都合のいい魔法の杖にイエス様がなったということではありません。
生きていく上での不安が無くなるようにイエス様を捕まえようとしても、捉えきれません。
むしろ、私が今持っている僅かな物や、風に煽られて頼りないと思っている舟を用いて、
イエス様は私たちを目的地へと導いてくださいます。

信仰があったとしても、私たちはいろいろなことにぶつかるときに恐れを抱き、ぐらつきます。
しかしそうした私たちの限界をイエス様はよく知っていてくださった上で、私たち自身と私たちの持っている物を用いてくださいます。
主イエスご自身が共にいる、恐れることはないと、強風の中で弟子たちに言ってくださったように、今も呼びかけていてくださいます。
イエス様の言に信頼して、日々を生きて行きましょう。

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