《メッセージの要旨》 2021年8月1日  聖霊降臨後第10主日

      聖書 : 出エジプト記        16章  2~4節、9~15節  
            詩篇             78編 23~29節 
            エフェソの信徒への手紙  4章  1~16節
            ヨハネによる福音書     6章 24~35節   
      説教 : 「 神の業を行うとは 」   木下 海龍 牧師 (信徒代読)
      教団讃美歌 : 420、 34、145、 298

イエスを探し求めて、人々は、ガリラヤ湖からカファルナウム迄やって来ました。
彼らは、イエスと幾つかの問答をした結果、
それでは「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うたのです。彼らの真剣な問いかけに対して、イエスは迫真の返答をなさいました。ここでの問答は極めて重要な内容が語られており、その後のキリスト教の根幹をなす真理が語られている箇所であります。
イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
文語訳では「神の業はその遣わし給へる者を信ずる是なり」
「神がお遣わしになった者を信じることだ」と言われても、当時も今も、これを信じるのは、なかなか出来ないのです。
人々は今日も明日も、さらに自分が死ぬまで食べるに困らないパン・食物を頂くことを願っていました。今日と明日の生活の安定を願ったのです。
しかしイエスは自分が遣わされてきたのは「食べればなくなる食物」のためではなく、永遠の命に至るための、「食べてもなくならない食物」のために来たのだから、あなたがたもそのために働きなさい。さらに、イエスは仰ったのです。『ほかならないわたしがその命のパンである』と。
この一連の真剣な論議と問答の結果はどうなったのでしょうか。
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と68節には記されてあります。ここに信じて生きる世界への超えるべき渓谷があると言えましょう。
 自分たちが既に持っている信仰理念とか文化的価値観を基にして、人は良し悪しを判断するのが普通でありますので、彼らの多くが離れ去ったのです。
ここのところは、なかなか難しいところだと思いますね。
それらの理念や価値観に準じて現在の在り方や行動の基準になっているのですからやむを得ません。しかしながら、神が遣わした方を受容せず、信じないのであれば、神の業を行っていないのでありますから、神様が与えたいと熱望した「永遠の命」からは逸脱します。それゆえに、神様の御心の中心からは程遠いところに遺されることになりなります。
 神様に直接に至る道は人間の暗さゆえに隠されているようです。どんなに思索しても、神の実在の捕捉には至りえないのであります。哲学者であり、数学者であり、しかも神学者であったパスカルが神の存在を確率的に1/2 であると言明しました。その中で彼は神が存在することに賭けたのです。17世紀のその時代ではまだ、それの可能性が信仰的にも精神的にも存在したと言われています。彼が計算する前に前論理的な直観によって、彼は既に神の存在を信じていたのです。他方、今の時代は、多くの領域で成熟した近代社会の自我は、このパスカルの神が存在するかしないかの賭けには、尻込みしてしまって深い懐疑の中で自分の人生を賭けることができないのです。前論理的直観が持てない社会状況になっているからです。

 神の存在証明を哲学的且つ数学的に推論することを断念して、「キリストの実在」へと舵を切ったのが20世紀の人類的悲劇と言われる二度にもわたった世界大戦を経験した以後であったのです。
全知全能でないお姿でこの地上を歩ゆまれたあのナザレで育ったイエスは確かにおられたのだ。大工の仕事をこなして家庭を支え、3年ほどの「神の国」伝道の経て、十字架刑によって殺され、イエスは復活した。そのイエスは実在したではないか。二千年後の今も、多くのイエス時代の遺跡が遺されているではありませんか。いや今も多くの人がイエスの実在を信じて、辛い人生を生き抜いている姿を見るではありませんか。
  「癒えざれば癒えざるままに復活祭」井川 静   この句の作者は自分の難病が癒されるようにと祈り願いつつ、病は癒えていないまま、イエス様の復活を祝っているのです。
イエスの実在をいかにして理知的に且つ直観的に自分自身の人生の中で実感的に捉えられるか。イエスの実在を自分の人生の中心に迎えるのか。イエスを求めるこの道ゆきは ある意味で、ルターの信仰体験を、21世紀の複雑多岐にわたる情報過多の中で求道する我々の姿であると言えるでしょう!! 
人はやがては死ぬのだから「神がなければ、全てが許されている」というニヒリズムをイエスの実在に向き合うことによって、乗り越え得るのであります。この言葉はドストエフィスキーが小説「カラマゾフの兄弟」の中でイワンに言わせてから150年程が経過しました。そしてたとえ「神なんていないのだ」と思ってみたところで、現実には自分の行動の多くが許されずにあるのです。多くの事柄が我々を拘束して、しがらみの中で窒息させるほどの思いに追いやっています。殊に今のコロナ禍で女性の非正規社員の自殺者が急増しているのは何を意味しているのでしょうか。神がいない故の過酷な社会であるからではないでしょうか。
本日の聖書では
 神の業を行うとは、神が遣わされた者を信じることだ、とイエスは明言されました。即ち、「わたしイエスを信ずるのだ。私の奇跡と言葉の背後にわたしを遣わした神を観なさい」。
神の存在証明が不可能だとしても、ナザレのイエスがあなたの魂に語り掛けたあの日々は鮮明ではありませんか。あの日、わたしとあなたの心が鮮やかに燃えたではありませんか。それを一時的な錯覚として捨て去るのであれば「豚に真珠を与えた」譬えに自らおとしめている事になるのではないでしょうか。
 あの日、われにもあらず、イエス様は私のために来られたのだ。と信じた不思議さと、尊さを噛みしめながら一緒に生きてまいりましょう。

憐れみたまえ、主よ。アーメン。
コロナ禍で働く人々、コロナ禍で苦しむ病人とご家族の上に、
主イエス様の癒しと慰めを祈ります。アーメン

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