《メッセージの要旨》 2021年8月15日  聖霊降臨後第12主日

       聖書 : 箴言              9章  1~ 6節  
             詩篇             34編 10~15節 
             エフェソの信徒への手紙  5章 15~20節
             ヨハネによる福音書     6章 51~58節    
       説教 : 「 イエスの肉と血の意味 」  木下 海龍 牧師
       教会讃美歌 :  374、 470、 333、 266

この個所は、何らの比喩もなく、直截に語っておられる。だからユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに議論し始めた。
ここを読むと、思い出しませんか。イエスが「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、『神の国』を見ることはできない。」との、イエスの言葉をニコデモが聞いたときの反応です。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と。 見えない「神の国」を見るためには、人が「新たに生まれなければならない」とイエスは語った場面です。

ヨハネ福音書では「神の国」は二回使われており、それに引き換えて「永遠の命」は16回も使われています。他方、マルコ福音書では「神の国」は14回、「永遠の命」は3回使用されております。
イエスの宣教活動当時、イエス・キリストが弟子たちを教え、民衆に語りかけた言葉は、ヘブライ語ではなく、同じ北西セム語派に属するアラム語であったというのが定説です。
マルコ福音書は紀元60年前後、ヨハネ福音書は紀元110年前後に出来上がったのです。この間の教会神学の深まりとエルサレムから追放されて、地中海周辺へと広がって行く途上で、「この道」に入ってくる人々の文化的背景や時代背景を考量して、イエスが語ったアラム語の同じ言葉を聖書の文脈の中で「天の国」「神の国」「永遠の命」と言い代える方がイエスの真意が伝わると福音書記者と当時の教会指導者層が判断して、同じアラム語を各福音書の文脈に合わせて三つの言葉を適宜に置きなおしたのではないかと私は考えております。
さらに、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:20 21 と語っています。
「神の国」と「永遠の命」は同じ次元を指し示しているのですが、実在するのだけれども目には見えない領域であるのだ、と。しかもそれが人の命と見える形而下の世界を根底から支えている存在である、と。イエスは教えているのです。
「永遠の命」と言う言葉も、百歳まで生きた、という年代を表わすクロノスの次元のことではないのです。動物は死後の世界を期待したり、死を考えて悩んだりはしません。私ども人間は、幾つまで健康で生きられるか、死んだら両親や連れ合いや家族と再会できるだろうか。と考えたり、不安を抱えたりする傾向が強いのです。
イエスは、そうした我々人間に向かって、目に見えない、触ることはできないが、実在する領域を「永遠の命」と言ったり「神の国」とも言い換えられる言葉でもって弟子と民衆を教え、招いておられるのです。分からせるために、いろいろな譬えや、奇跡行為を通して「しるし」を感知させ、感得させようとなさっておられたのです。
「わたしは、天から降って来た生きたパンであある。」との言葉の背景には、出エジプト記の荒野において、飢えた群衆が天からのマンナによって生き延びた奇跡物語があるのです。一週間分の食物マンナが無くなると再びマンナが天から降ってきて彼らの肉体を支えたのです。食べたらなくなり、空腹になるので、次の週にも与えるとの約束があったのです。
だがそのマンナと比較して、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と。そこでユダヤ人たちはさっきの議論をしたわけなのです。さらにイエスははっきりと語った「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。」と。「永遠の命」はイエスの肉を食べ、イエスの血を飲むところに到来するのであります。

聖餐式の大切さはそこにあるのです。イエスの言葉を信じ、深く理解して、そこで新たに立ち上がって、生きなおして行くのです。生きなおして行くためのエネルギーがイエスの肉であり、血であるのです。私どもの身体は日常的に食べているもので出来上がっていると言われています。私は、毎朝大豆を他のタネと混ぜて食べておりますが、わたしの肉体の一部分はこの大豆が基になって出来上がっているのではないかと思っています。
肉眼では見えないが霊的な私の体が存在すると信じているのですが、聖餐式において預かるパンと葡萄酒が目には見えないイエスの肉とイエスの血となって私をイエスに深くつなげてくださると信じます。見えるパンと葡萄酒は信じて自分の体内に受けとる者にとって、まさしくイエスの肉・イエスの血となってその者の体内に行き巡るのであります。聖餐式を受けた後に、パンと葡萄酒がイエスの肉と血となって、血液の流れに運ばれて体内を行き巡るさまをありありとイメージいたしましょう。分子化して体内を巡るイエスの肉と血は、霊肉共にその人を浄化し聖別して神の所有である刻印を鮮明にしてくださるのです。

 聖餐にあずかる秘蹟(サクラメント)を通して、赦され、慎み深さと謙虚さを伴ったピエタスの愛を三位の神様に捧げる者になりましょう。そうして、イエス・キリストを信じる道を一緒に歩いてまいりましょう。

憐れみたまえ、主よ。アーメン。

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