《メッセージの要旨》 2021年8月22日 聖霊降臨後第13主日

       聖書 : ヨシュア記          24章  1~2a、14~18節
             詩篇             34編 16~23節
             エフェソの信徒への手紙  6章 10~20節
             ヨハネによる福音書     6章 56~69節
       説教 : 「 たべて生きよ 」   光延 博 牧師

イエス様が昇天された後、北のアンティオキア教会から宣教したパウロは61年頃、
エルサレム原始教会指導者であった主の兄弟ヤコブは62年頃、
後に異邦人伝道を行ったペトロは64年頃殉教したと伝えられています。
パウロなどによって地中海世界に教会が広がって行きました。
66年からのユダヤ戦争前、非武装を掲げたであろう教会は、
戦意を醸成する周囲のユダヤ人から敵意を集めたであろうことから、エルサレム原始教会は
エルサレムからいったんヨルダン川東岸の町ペレに移住したと伝えられています。
50年頃までこうであったと言われていますが、
多くのユダヤ人キリスト信者はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に属し、
異邦人伝道に尽力したパウロなどを例外にすれば、
ユダヤ教の枠の中で律法を守っていましたので、ユダヤ教の会堂の法的な庇護に与っていました。
そのことは同時に、
ユダヤ教宗教活動を認めていたローマ帝国の庇護のもとにあることでもありました。
守られていたのです。
しかし、ユダヤ教徒がユダヤ戦争に向けて団結を強めるために、
ナザレのイエスをメシアとする「異端者」を会堂から追放し弾圧を強めて行きます。
70年にローマ軍によってエルサレムは滅亡すると、
ユダヤ教徒は再起をかけて団結をより強く求めました。
ファリサイ派のヨハナン・ベン・ザッカイはヤムニアという町でユダヤ教再建を図ります。
律法研究機関を作り、最高法院を設け、法規改定などに着手します。聖書正典も確定しました。
そこで決定したことを各地の会堂へ発信して指導するという形でユダヤ教を再建しようと努めました。
ラバン・ガマリエルが80年から115年頃まで引き継ぎます。
礼拝の中で読むべき『十八の祈願』が作られます。
その中には「異端者たち」に対する厳しい呪いの祈願が含まれていました。
そこには、「背教者たちには、希望がないように」
「ナザレ人たち(キリスト教徒のこと)と異端者たちは瞬時に滅ぼされるように」
「そして、彼らは命の書から抹殺されるように」とありました。
このようなユダヤ教からの排除と迫害の中にヨハネの教会もありました。
「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。
 しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」
(16:2 他9:22、12:42)などの言葉が見受けられることもそういう状況を示しています。
また、ローマ帝国からもキリスト教徒は迫害を受けていました。
庇護のもとにあったユダヤ教から排除されたキリスト教会は皇帝崇拝を強要され、
逆らえば厳しい迫害を免れませんでした。
また、教会内部にも分裂の危機がありました。
イエス・キリストを信じて行くことの困難が信者に重くのしかかっていました。
ユダヤ教の傘下にさえ居れば安穏に生きられるはずでした。
信じないほうが危害を加えられることも不利な立場に立つこともないという思いがあったと思います。
共同体から離れて行く者が大勢出ています。
また草創期の教会として、教会としての教義の内容は固まっておらず、イエス・キリストの人性と神性の捉え方についても様々な主張がありました。共同体内外に困難を抱えつつこの90年代に書かれたヨハネによる福音書が読まれて行ったのです。
6章は5千人の供食のお話から始まりました。
群衆から、ユダヤ人との対話になり、
今日の箇所では多くの弟子たちとの間の話が記述されています。
厳しい問題に囲まれた当時のヨハネの教会の背景がここにもあります。
教会から離れるほうが自分にとって有利に思えます。
そういう状況に置かれている弟子たちに、
イエス様が30年頃まで地上を歩かれ御教えを説かれたように、
この90年代のヨハネの教会に、復活者としてお語りになっています。
そして、この2021年の私たちにもです。
イエス・キリストの言葉は
永遠のロゴス(1:1)、いのちそのものの法(理)、真実を告げる御言葉ですから、
歴史が終わるまで、また歴史を超えて永遠にあるものだからです(詩編19編)。
その事を62節は言っていると思います。
イエス様が永遠から来て、その永遠に帰って行かれるという意味は、
イエス・キリストが永遠の生命を完全に指し示された、永遠の言葉だからです。
イエス様のロゴスはいつまでも残ります。
「私たちは愛なる御父の中に生かされている」というここにある事実、永遠が
真に私たちの生を規定しているという真実は絶対に廃れません。
私たちは誰一人神様から離れている生命などありません。それとも、私の生命は私が造り、私が保持し、私の頑張りや立派さで初めて私は立っている、そういう生命なのでしょうか。
私たち人間は、「満腹する」(6:26)ことを求める肉の者です。
生身の生き物ですから当然のことです。
けれども、それだけでは満たされない場所が内にあるはずです。
聖霊が吹き込まれ創造されていると聖書が神話的に言うように、
私たちの内には聖霊を宿している場所があって、永遠のロゴスを希求しているからです。
生活が安穏に守られることは素晴らしいことです。
しかし、それを求めることが過剰になれば、それがもとで苦しみは増すということも大いにあります。
人間が「これがあったら生きられる」というもの、
「これがあるからいつでも御許へ帰れる」とさえも思える安心して生きるようにさせるもの、
それがあれば私たちは救われるのではないでしょうか。
その救いの、永遠の生命のことを、イエス様が今日も一生懸命になって語っておられるのです。
「創造者であり救済者である御父とわたし(イエス・キリスト)とあなたは一つである(特に17章)。
 そこに今あなたは生きているのだ。
 大きな困難にあなたはあるが、わたしが共におり、守り導いているのだ。」と。
「あなたがたも離れて行きたいか」(「あなたはどこにいるのか」創世記3:9)とは、
なんと哀しみを内に含んだ思いだろうと思います。
祈るような思いで、あなたが生きてほしいと、どうにか乗り越えてほしいと、一緒に生きて行こうと、
滅び(絶望)に至らせるためではなく(10:10)、
イエス様が持っておられた生きる喜びを共に喜ぶために(15:11)、
他の誰のでもない「私」の人生を私が生きるために、
困難がありながらも与えられた永遠の生命を主と共に生き、
そこに置かれている私が輝くために語っておられるのです。
私たちは、ペトロと共に、使徒たちと共に、
私たちを本当に生かす方に
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」とお答えしたいと思います。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
 あなたがたには世で苦難がある。
 しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)と
「永遠」から御言葉を発せられる主と共に生きたいと思います。
祝福を祈ります。

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