《メッセージの要旨》 2021年 8月 8日  聖霊降臨後第11主日

       聖書 : 列王記上     19章  4~ 8節
             詩篇        34編  2~ 9節
             エフェソの信徒への手紙  4章 25節~5章 2節
             ヨハネによる福音書     6章 35、41~51節
       説教 : 「 いのちのパン 」   光延 博 牧師

イエス・キリストは「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(47節)と告げられています。すべての人はこの神様の決定に招かれています。主イエス・キリストは、「悪と罪と死の力」という「この世の支配者」を打ち砕き、救いを「成し遂げられた」(19:30)、アガペー(愛)を貫かれた勝利者(16:33)であると、福音書は高らかに宣言します。私たち(世)は霊的に死んでいる者です。しかし、神様は「あなたは生きている。信じる者は永遠の命をいま得ている。」と、無から有を生む出す方として、私たち一人ひとりに今日語りかけてくださるのです。紀元90年代の厳しい迫害と大きな困難にさらされていたヨハネの教会に復活者イエス・キリストが語りかけられたように、です。永遠の生命に気づくのは、律法(良き業)、修行、悟りではなく、ただ主の決定を受け入れる、信じるのみです。その生命の「永遠」とは時間的な長さではなく、言わば質的なものです。私たちはこの世界で時間の中に生きていますし、同時に永遠の生命という時間を超える命に生かされてここにあるのです(永遠の今)。ですから、私たちのまなこは、この世の現象に埋没しません。見えないものに目を注ぎ、もう一つの現実(究極の救いの現実)に、主と共に復活するのです。また、主と共に「世」を愛し(3:16)、批判すべきは批判し、仕えます。そして、私たちの人生(生命)は、御父と御子が用意してくださっているふるさと(御許へ14:1-3)へ向かっている今です。
救い主は、こうも言い換えられます。「わたしが命のパンである。」、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」と。イエス・キリストは命そのものです。普段食する食べ物も大切です。そして、真の食べ物、復活の生命そのものである、私たちと一つ(17:23)でいてくださる主が私たちの中におられます。その内なる主を自覚する(信じる)ことが、主ご自身を食することです。
 上智短期大学で「キリスト教人間学」などを教えておられる小林宏子氏は、その論文『ヨハネ福音書におけるイエスのアイデンティティ―「エゴー・エイミ」定型句・絶対的用法の人間学的考察―』(上智短期大学紀要、2005年)の中で、ご自身の信実「人間の救いとは、神の前に限りなく肯定された真の自己を見出してゆくことにある」に基づいて、学生たちが自己を肯定できることを願いつつ講義を行っていることを証されています。学生たちに「『建前の私』や『正直な私』を越えたその奥にある『真実の私』、又は『超越的自己』や『〈生きてある存在感〉としてのアイデンティティ』と呼ばれる実感に目覚めること、及び、その肯定にまで導くこと」を大切にし、そして、ヨハネによる福音書はそのような意味で、イエス様の持たれていた超越的アイデンティティについて書いていると言われています。今日の聖書箇所にある「生命」に関係すると思いますので、長い引用になりますがその論文から抜粋して、しっかりと心に刻みたいと思います。
 (引用)
人は「〈わたし〉とは一体何者なのか」と自ら問う。「〈わたし〉が〈わたし〉である」という自己のアイデンティティは、自分ひとりだけで捉えられるものではなく、他者との関係における〈わたし〉であることで成り立つ。その両面を、人は、自己の〈アイデンティティの感覚〉として感じ取る。
エリク・エリクソンはこう言う。人は生きるためにアイデンティティを必要とする。自分のアイデンティティを補強し確固としたものとするために、しばしば他者への偏見や排他性を持ってきた。つまり、人は「自分はそうあってはならない」という「否定的アイデンティティ」のイメージを、自分の外側に、「自分よりも下の人間」に押し付けることによって、自らのアイデンティティを形成する。そして、人類のこの悲劇的な事態を乗り越えるためには、〈この地上を越えた〉アイデンティティが必要である、と。
ヨハネによる福音書は、イエスは神の啓示者であり、その十字架死を「栄光化の時」とする。「独り子イエスと父との一致」を表現するために、福音書記者はイエスの発言に、神ご自身を表す定型句の絶対的用法「エゴー・エイミ」(わたしこそが~である。わたしはある。わたしはいる。)のみの記述を用いている(8:24, 8:28, 8:58, 13:19)。
「エゴー・エイミ」定型句・絶対用法は、イエスの十字架死との関わりの中で、「イエスは何者なのか」というテーマを暗示しながら用いられる。イエスは、自分の命を捨てるという自己超越を促した〈超越的アイデンティティ〉からの呼びかけである内なる(エゴー・エイミ〉に応え、そこに立って神の愛を啓示し、彼の「神の独り子」としてのアイデンティティを実現していった。
 イエスにおける十字架とは、権力と暴力によって拘束され、すべてを剥ぎ取られて裸になり、苦難を負うこと、人としての尊厳のかけらもない程に痛めつけられて血を流し、踏みにじられることに耐えること、そのようにして人間の無力で弱く、はかない命を注ぎ出して死んでゆく人の人生を自ら引き受けることであり、人類の歴史を通し、常に誰かの上に押し付けられ、誰かによって担われ続けている否定的アイデンティティとしての〈わたし〉を担うことを選ぶことであった。人間に否定され無視される人間の命。しかし、この否定的アイデンティティを生きることを余儀なくされている人間の中で、本当に否定されているのは命の与え主であり、常に〈わたし・である〉(エゴー・エイミ)と主張し得る神ではないのか。
 それ故、ヨハネはこの十字架のイエスに、人間の拒絶に耐えつつ命を与える、神の〈エゴー・エイミ〉を見、その方と一つになっている「神の独り子としての栄光」(1:14)を見る。なぜなら、「十字架に挙げられたイエス」こそが、それまで人間の目には明らかにされていなかった、神である〈エゴー・エイミ〉の愛を目に見える姿で開示するという栄光だからである。否定的アイデンティティを引き受け、その中で、「すべての人間を限りなく肯定し、受容し、承認し、担い続けている父なる神の愛と救いの意志に一致した独り子」の命を貫くためであった。つまり、超越的アイデンティティからの呼びかけによって、「心理社会的アイデンディティ」(※人間関係性の中の自己理解)を乗り越える「道」となるためである。イエスが〈エゴー・エイミ〉を啓示するとは、同時に、その神によって限りなく「肯定され、受け入れられ、承認され、愛されている」〈わたし〉を啓示することでもある。超越的アイデンティティからの呼びかけは、今も、すべての人間の〈わたし〉に向かって発せられている。自分の中に感じ取れる中心を絶対視することなく、この世のアイデンティティを超越せよと呼びかけられている。人に否定されることに傷つく時は、神による肯定と承認に〈わたし〉を合わせ、「愛されている者」としての生を全うすべきであると。それぞれの人間の選びの中に〈エゴー・エイミ〉〈わたしはいる〉〈あなたを愛するためにここにいる〉という言葉を響かせるために、「神の独り子」は十字架に挙げられている。 
ヨハネのイエスに、この世のアイデンティティを超越する「新しい人」のモデルを見出すことも可能ではないのか。人間の無力さ、弱さ、貧しさを否定し、力と富の中にのみ自分のアイデンティティを築こうとする人間の傾向を超越し、〈エゴー・エイミ〉である方の目に映る、一人一人の人間の「真実の私」にふさわしい選択をするためである。静かに心の耳を傾けるなら、その都度、一人一人のためにふさわしい選択を、励まし、導く声が響くであろう。〈わたしである〉〈ここにいる〉〈あなたの傍にいる〉と。
〈エゴー・エイミ〉の目にある人間は、常に、すべて「愛されている子」である。その「愛されている子」としてのアイデンティティを生きぬくためには、人間の否定や拒絶を恐れることなく、「真実の私」であり続けるための選択をする必要がある。愛において成熟するためには、どうしても、自己ではなく相手の自由を承認することが含まれる。つまり、相手の拒否する自由を許すことが含まれるので、人から拒否されることを恐れていては、人間の関わりの中で「神に愛されている者」の本当のアイデンティティを生きることはできない。他の人間に肯定される為に選ぶアイデンティティではなく、神にすでに肯定されている者が選ぶアイデンティティを探すべきである。選択の時点では見えなくても、後になって、あるいは人生の最後になって現れて来る〈わたし〉の実感は、自己超越という課題を抱えた人間一人一人の〈わたし〉が、それぞれに達成してゆくべき姿としての存在感であり、神の目の前にある命の実在感であろう。そして、その神の前での命の姿を永遠の命と呼ぶのではないだろうか。(以上引用)

 命のパンであるイエス・キリストは、どんなことがあっても生きられる、否定的メッセージを浴びながらも生きてゆける、神様の絶対肯定の永遠の生命です。この主がご自身を私たちに与えておられます。あなたを包み、内より生かしめています。この主と共に歩んでまいりましょう。

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