《メッセージの要旨》 2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日 

       聖書 : エレミヤ書       11章 18~20節  
             詩篇          54編  
             ヤコブの手紙      3章13節~ 4章8a節
             マルコによる福音書  9章 30~37節   
       説教 : 「 神の眼に立派な人とは 」  木下 海龍 牧師
       教会讃美歌 : 132、 331、 285、 391

 「誰が一番偉いか」 この世を肉眼で見ている人間社会においては、このことはいつも問題になってくるのではないでしょうか。多くの場合、集団的組織を形成して、営まれているからです。それぞれの組織が一つの秩序の中で行動していますから、秩序や統率が無ければ、生産は上がりません。それは自分が選んだ組織であれ、世襲制のもとにあったとしても同じです。
イエスの「神の国」運動は、武力に因らない、宣教による「神の国」運動でありました。それでも、イエスを頂点とした一種の軍隊的と言うか、キリスト教一派のである救世軍的な組織であったと考えられます。
私が神学校に入った1963年頃の日本ルーテル神学校は24時間決められた時間割りの寮生活を基に動いておりました。銅製の長短のパイプを打って曲を鳴らして起床させておりました。日に三食とも決まった時間に食堂で一斉に着き食事当番の祈りで始まりました。チャペルでは朝の祈りがあり、受講する時間帯、夕べの祈りなど、全部決まった中で動いていました。
寮費や学校の授業料は各自でそれぞれが推薦を受けた出身組織からの奨学金によって賄われていました。私は当時の「アメリカ福音ルーテル教会」からのスカラッシプだったと思います。現金を手にしていませんから詳細は分かっていません。士官学校的だと聞いたことがあります。
日曜の朝は、昼のサンドウィッチを持たされて、決められた教会の教会学校に間に合うように、寮を出ました。私は鷺宮の神学校から、バス、中央線、山手線、東横線に乗り換えて、今の日吉教会へ行き、CSの生徒に電話をかけて教会に来るようにと促しました。夕方、寮に帰って来ると、田内君と一緒に、朝の残ったみそ汁に、大きな電気釜に残っていた朝のご飯を入れて夕食代わりにしました。年に一回の修学旅行は一泊二日で、赴任したばかりの牧師とその教会を問安する旅で、興味深い楽しい見聞をする旅行でした。赴任したばかりの若い牧師はどんな生活をしているのかを直接に知る機会でもありました。クリスマスの夜のデナーは、来賓をお迎えして、食堂で開催されるすき焼きパーティは大御馳走でした。
たまたま、私が寮長であった時に、熊本大学哲学科を卒業した重富克彦君が入学して来ました。寮長の大事な仕事のひとつが新入生の部屋割りでした。一人部屋にするのか、誰と同室にするのかを決めるのです。思案した結果彼には一人部屋がよかろうと判断して玄関から入って突き当たって右に曲がった奥まった部屋を充てました。彼が二人部屋では、なにかと難しい感じがしたからです。彼には大層に喜ばれたが、当時社会学部出身のわたしには、彼のケルケゴール論がなかなかに呑み込めなかった。「何でわからないのか??」と彼は訝しげな顔で私を見たことが思い出されます。
ここで言いたいのは、小さな神学校の寮生活であっても、そこには共同の規律があり、学校の意向を寮生に伝えたり、トイレ掃除の順番を決めたり等々があって機能していたと言うことです。その人が偉いかどうかではなく、その組織が稼働していくためのひとつの機能的な役割は無くてはならないものだと言いたいのです。
おそらくイエスの十二弟子の間でも、更に、それを取り囲む弟子集団を含めて、役割が当然あったのです。ユダが会計係だったことは分かっていますが・・・。そうすると、誰がイエスの次に偉いのか。誰がイエスから一番に認められているのか?! こうした意識の動きは当然あったのではないか、また弟子の間で話題になった事でありましょう。
私は、坐禅した経験がありますが、誰が公案を数多く透過しているのか!? このグループでは自分の境涯はどの辺にあるのだろうかと思ったものです。古参や新参も含めてそうした競争心はあります。それを煽って教育している節もあるのかなあと思ったこともありありました。
「旅の途中で、誰がいちばん偉いかと議論していた」とは、こうした宗教集団、ある種の修行集団、或いは競技の世界でも、誰がいちばんか!!? これは当事者にとって、各自の思いと、また仲間の話題に上がってくるものです。
順位を決める競技は別にして、宗教的・精神的な集団にとっては、上達志向と同時にそれにはこだわらない精神性をも養ってゆかねばならなりません。そうした課題が弟子には付きまとうと言えましょう。そこのところが問われているのだと思います。
誰がいちばん偉いか?!を、問題にするのは、個人の資質と個人を取り込んでいる社会の精神性と言うか、価値観の風土が影響していると言えましょう。人によっては
「それでいくら稼げるのですか!?」とか、
「へえー数学をやっているのですか! 偉いですね!」と言っている人もいます。
仕事をして、なにがしかのお金を得て、日々の生活が維持できることは大事です。それが普通に出来ているのは偉いことだと思っていいのではないでしょうか。
それとは別に、「お金は稼いではいないが、この方の振る舞いや、考えや、なさっていることは偉いことだなあ」と感じ取る感性を持っていることは、大事な事であり、それを感じ取っている本人を豊かにしているのだと思っています。
随分と前の話ですが、或る対談記事だったと思うのですが、女性の対談者が、升田幸三棋士に「どうして、そんなに偉くなったのですか」と話しを切り出したのです。当時升田幸三棋士は一度名人位にはなったものの、その後の頂上決戦では、木村名人や大山名人には負けることの多い時期でした。勝負の世界ですから、その勝負に勝ってなんぼの世界であるわけですから、それとは別に、こうした見方をしている対談者は棋士升田の何処に魅力を感じ取って発言しているのだろうか。と私の中では強烈な印象となって、今でも時たま思い出します。「どうして、そんなに偉くなったのですか」この言葉の持つ広がりや洞察、それに彼に共感している関係性などについては、今ここでは詳細な論及は出来ませんが、頂上決戦では負け続けているのだけれども、その彼に対して深い尊敬と好感で受け止めている人がいて、升田棋士が醸し出している領域を大事にしている人がいるのです。
本日の聖書では、イエスはその視点のひとつを言って見せて、弟子たちのライバル心を戒めたのです。
仲間の誰かと比較して自分は上だとか、下だと考えるのではなくて、自分自身が神様を前にして、納得出来る人間形成を目指して歩むようにと、イエス様は諭されたのであります。

  主よ、われらを憐れみたまえ。アーメン。

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