《メッセージの要旨》 2021年9月26日聖霊降臨後第18主日
聖書 : 民数記 11章4~6節、10~16節、24~29節
詩篇 19編 8~15節
ヤコブの手紙 5章 13~20節
マルコによる福音書 9章 38~50節
説教 : 「 塩が味付けする 」 光延 博 牧師
教会讃美歌 : 151、 240、 279、 339
当然ですが主イエスはいけないことはいけないと言われます。赦し合いが大切なのだから何をやってもいいとは言われません。その人自身のいのちの素晴らしさを曇らせ貶めることになっていくことは許されません。御父の愛という塩に生かされている事実に立ち、自分が大切なこと、他者が大切なこと、調和が大切なことを伝えて行かれます。
38節にもその大切さが含まれますが、42節から激しく厳しい表現で語られている御言葉を私たちは聴いています。42節で小さな者をつまずかせないように、また43節から47節まで自分自身つまずかないようにという教えです。そして、「地獄」という語が出てきて、火で味つけられた塩を自分自身の内に持って、お互いに平和に過ごしていくようにと教えられました。イエス様が命をかけられたのは平和・平安(シャローム)への人間への祈りでありました。
「地獄」と訳されている原語は「ゲヘナ」です。文語訳、新しい2018年版の聖書協会共同訳ではそのまま正しく「ゲヘナ」と訳出しています。ゲヘナとは旧約聖書のヘブライ語で「ヒノムの子ら」の谷という意味の「ゲー・ヒノム」を音写して新約聖書のギリシャ語にしたものです。エルサレムの街の南側の谷にあるごみ捨て場、動物・犯罪人の死体が焼却された場所の名前でした。古来、そこで異教の神々であるバアル神やモレク神に自分の息子や娘を焼いて捧げるという恐ろしい行為がなされました(エレミヤ7:30-34)。そのような人間の恐ろしい罪が現れる場所、そして預言者エレミヤによって神の激しい審判が宣告された場所として、「地獄」の比喩、象徴となりました。「地獄」という言葉を聞いて私たちは様々なイメージを持っているのではないかと思います。日本で表現された地獄のイメージやキリスト教が死後の世界として言う場合のイメージを私は植え付けられて来たと思っています。私がそのことについて不勉強だったから毒されただけだと思っていますが、それだけでは済まない恐ろしさを感じています。カルトではそれが強調され、人を脅して教団拡大を図ることになります。私が学んだ、日本キリスト教団牧師であった川崎経子先生は、地獄の恐怖を植え付けて人格破壊を行うカルト教団で傷つき打ちのめされた方々を癒し、元の人格を取り戻していくお働きに奉職されました。脱会できたとしても、植え付けられた恐怖が癒されるにはかなりの長い時間を要します。その一端を学ばせられ、地獄に関する問題の深さを実感しています。特に死後を考える、この世が作る地獄のイメージが聖書にも読み込まれると、祝福である聖書自体が呪いへと転落してしまいます。この言葉を使う場合には慎重さを要すると思います。死後に地獄はないと私は確信しています。地獄は勧善懲悪の教育として都合がよかった、少し脅して悪い行いをさせず、良い行いをさせるのに手っ取り早いという考えがあったでしょう。人間の創作だと思っています。神様が、イエス・キリストがおられるところは天国です。おられないところはないのだからというのが根拠です。神様がおられる事は明確です。神様がいなければ私もあなたも生きてはいません。神様は生命そのもの、復活させる力そのものです。神様のお力で、私の意識を超えて私たちを生かしめておられる事実は明白です。
ここを押さえた上で、次にこの世の現実に目を向けたいと思います。そこは人間の恐ろしい罪が蔓延している世界です。よくある地獄絵図が示すのは、死後の世界ではなく、現実の人間の罪の姿です。互いに殺し合う世界です。神様の裁きとして描きますが、恐ろしい神様を思い浮かべることは正しくありません。恐ろしいのは罪の人間であり、それをもたらしているのは神様ではなく人間です。
弟子たちが象徴するように、罪の人間の姿が描かれます。「誰がいちばん偉いか」(9:33以下)に、自分を高い位置に置いて小さいと思う者を見下し排除する(9:38以下)ことに囚われつまずいています。しかし自覚はない。この世の論理通りです。自分を高めようと上を上を目指し、他者を押しのけます。競争原理は身に沁み込んでいます。存在の尊さではなく、行い至上主義です。自分の価値が分からなくなりつまずき、それを確かめるには、他者と比較して自分が上だと感じないと確かにならないと思い込みます。生きる価値がある人と価値がない人を判別する、殺し合いがあります。様々な凶悪事件が起こってきます。大事件にならないまでも日常茶飯事に自分や身の回りにあります。
イエス・キリストは下へ下へ身をかがめ、一人ひとりの足を洗って仕え、御父はあなたを赦しておられると告げて行かれました。主のまなざしは弱い者、小さい者へあたたかく注がれています。この世の論理で言うところの底辺から、すべての人間を救い上げられています。「神の国はあなたの只中にある(1:15)。御父の救いの中にあなたはある。」と、闇の世界の真っただ中で、本当の支配者(守り手)にある現実、御赦しと御支えと御愛が決定的にあなたを支配(国)している現実を、生涯を通して指し示されました。
弟子たちの願望、エゴは都で切り捨てられます。自分で切り捨てることは欲にまみれた私たち人間にはできないでしょう。自分の手の業、足がかせぐ行動力、判別する眼力によって傲慢になる自分で切り捨て、自分の力で福音に生きることは難しいのが人間だと思います。火が象徴する、神様の裁きと人間が呼ぶ、厳しい現実で、自分の小ささ、限界性、自分の罪深さが露になる現実に直面した時、その十字架の絶対の裏側に復活が秘められています。傲慢が支配しているなら復活はあり得ません。だから主は厳しく戒められます。そこで慈しみの神様の恩寵に包まれている自分を、自分の力で生きているのではなく、生かされている(ガラテヤ2:20)という本当の現実「神の国」に入っていることを、初めからそこに置かれていた自分を見出すのです。「私が偉い」「私は偉くない」と自分が裁く、その傲慢にあるならそれは霊的な死です。火(現実)はまた、その中からモーセに語りかけられたように、今ここに共におられるご臨在の神様を示す象徴です。
「塩」とは神様の恵みの事実です。塩は人間が腐れることから防ぎ、お料理を美味しくし、つまり一人ひとりのかけがえのなさを豊かにします。この塩は既に与えられています。私たちは実際、罪深さがあるにも拘わらず、赦され生かされている。この塩のことをイエス様がガリラヤ(神様のふるさとにある私の現実)で今話してくださっている。罪によって死んでいる私たちは、御使いが示すように(16:7)、応答して原初に立ち還り、私たちを福音の永遠の生命に生かしめ、気づかせるために訓練してくださっている主と共に何回でも新しい旅に出ていく。この世を生き直す、やり直しつつ歩むのです。