2022年  1月 16日  顕現後第2主日

      
聖書 :  イザヤ書            62章 1節~5節
            詩編               36編 6節~11節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  12章 1節~11節
            ヨハネによる福音書      2章 1節~11節

      
説教 : 『 イエスは水をぶどう酒に 』    木下海龍牧師 
            
      教団讃美歌 :  501、 326、 429、 206

 人が生きてゆくために、本当に必要な飲み物は、葡萄酒よりも真水が不可欠であります。
 その水をめぐって、今の世界は、経済戦略的に世界的規模で国際資本が暗躍しているのも事実です。
 今日の聖書の個所は、イエスが行った最初の奇跡行為であります。水よりも葡萄酒は値段が高いから、単
純に水を葡萄酒に変えた行為はすごい奇跡であるというのではありません。そんなことは、古の時代から、人間
は水と葡萄の実から、発酵という自然の仕組みを利用して大量の葡萄酒を製造してきました。

 ここでの婚宴の場面で、母マリアの依頼によって、母マリアの取り成しの嘆願に、イエスがお応えになったので
あります。イエス自ら率先して、この奇跡をなさったのではありません。イエスは「わたしの時はまだ来ていません。」
とお答えになっておられます。イエスはご自分がなさるべき「時」を見定めておられたのです。私たちも些細なこと
ではあっても、しなければならないこととそれを実行する時期の目安を自分なりに持っていることがあります。横
からの声が入って、「ええ!! 今なの!私が!!??」と時には思うことがありますよね。

 母マリアの願い、それは婚礼宴席の最中に、葡萄酒の振る舞いが出来なくなる事態を知って、その窮状を
何とか救ってあげたいとの篤い思いから、イエスに向けられた取り成しの祈りとなりました。それに応えられたのが
イエス様でありました。ご自分のメシヤとしての出番は、まだ先のことなのですが、現実に困った状況に至る場
面では、しかも、母マリアのとりなしもあったからには・・・だったでしょう。

 婚宴の席で生じた予期せぬ窮状を「水を葡萄酒」に変えて、花婿と一族一同を救ったのでした。花婿はそ
の経緯は全く知らず、助けたイエスにはお礼は記されていません。

 すべての人を罪からの滅びから救うという究極の贖罪行為とは異なった場面でありますが、必要不可欠な援
助をいたしました。それはイエスが弟子に教えられた「主の祈り」の中で「日ごとの糧を今日もお与えください。」と
祈るように教えた内容と通じていると言えましょう。

 主が教えられた「主の祈り」では、我々の願いを捧げるまず初めには「天の父の、み名があがめられますように。」
から始まって、「み国が来ますように。」さらに「み心が天で行われるように、地上でも行われますように。」と祈っ
たすぐ後に、「私たちに今日もこの日の糧をお与えください。」と続けて祈りなさいと、弟子たちに「主の祈り」を教
えるときに示されたのです。神様への祝福と賛美をしながらも、我ら人間の生活が成り立つような願いをして宜
しいのだ、と。だから現状の中で自分たちに必要な具体的な願いを神様に捧げなさい。と勧めておられます。

< 参照聖書 > マルコ 7:1-5 ここで少し視点を転回してみましょう。
マルコ  7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってか
らでないと食事をせず、

7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台
を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律
法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をする
のですか。」

 「けがれた手で」とファルサイ派の人が言っていますが、イエスからすると自分イエスを攻撃する口実に使ってい
るに過ぎないと見抜いています。「本来『けがれ』は衛生的な意味ではなく、祭儀的な汚れから来る言葉なの
です。今のコロナ禍の中で手指をあらうのとは違った意味内容としての出典であったものでした。

 当時、ユダヤ教を信じて生活を守ってきたイスラエル人は、外出先から帰宅した場合や、宴会や食事の前
には慣例的に肘からの手の指先にかけて、入念に洗っていました。
 今回婚礼を披露するこの家ではそのための石の水甕が大小合わせて六つありました。ところが、婚宴の客が
大勢集まって、その石甕の水はほとんど使い果たされていたようです。すなわち清めのための水は使い果たされ、
甕は空の状態でありました。この状態は人が行う清めの限界に至っていたことの隠喩でもあります。
 ヨハネ福音書が証ししている重要なメッセージがここにあります。罪から清めるための水はなくなっていたのです。
その石甕に、イエスの指示によって新しい水が、甕の縁まで満たしました。実際、イエスのご命令に従って、召
使たちは六つの甕に水を汲み入れて、満たしました。召使たちは、イエスの指示に従って、自分たちが水を満
たしたことは自任していたのです。しかし、それが葡萄酒に変わるとは知る由もなく、宴会世話役のところに運
んで行ったのでした。すると、9節に「世話役は葡萄酒に変わった水の味見をした。」その時にそれが葡萄酒に
変わっていたと、ここで、聖書を読む我々も知るに至るのです。葡萄酒の振る舞いを指示する役は無制限に
飲みたい人は好きなだけどうぞご存分に。といった宴会の運びは致しません。皇室の晩餐会や世界首脳会談
の宴席でも、盃の種類や回数は決まっているはずです。私が以前に富士教会で行いました聖木曜日の晩餐
でも「三杯迄、四杯を超えない」との定めを守っておりました。正式の宴会はそういうものです。もし仮に指名さ
れた有力者が、「三杯目の盃を掲げて、新郎新婦の婚礼を寿ぎましょう!!」と発声した段階で、葡萄酒が
底をついていることになれば、大騒ぎになったことでしょう。そのことを母マリアが心配し、イエスが最初の「しるし」
を行ったのでした。(宴会がはねた後に、ホテルに引き上げて改めてワインなどを召し上がるのは自由でありま
しょう。)

 聖餐式に於いて、聖別された葡萄酒を配餐するときの牧師の設定辞は「あなたのために流されたキリストの
血です」と宣べます。

 聖餐式の準備をする方は、それがワインであるのか、葡萄ジュウスであるのかは知っているのです。
 聖餐式でそれを受ける私たちは、「私のために流されたキリストの御血」として受け取るのであります。
 ルーテル教会は教えます「その盃を私のために流されたイエス・キリストの血である。と信じて受け取る人にとっ
て、それは受けた人の内で贖いの血となる。聖餐後に残された葡萄酒は元の物素である。」と。

 ヨハネ二章でイエスは、空になった石甕に水を満たすように命じて、それを葡萄酒に変えられました。召使た
ちはイエスの言われたままに行動しただけです。その水がとても良い葡萄酒であると、と証明したのは、これまで
の経緯を全く知らない婚礼の宴会世話役でした。

 ここで、一義的には、イエスは母マリアの取り成しを聞き入れて、花婿一族の窮状を救ったのですが、他方、
永遠の次元では、世界的規模の人類の贖罪行為であります磔刑の犠牲、十字架上で贖罪の血を流された、
その血の象徴であります。

 「葡萄酒を水から変える『しるし』」は、やがて時を超越して、天における祝宴に我々が与かるための予表を
見せる「しるし・奇跡」の業でございました
     主よ、わたしどもを、憐れんでください。アーメン 
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