2022年  1月 23日  顕現後第3主日

      
聖書 :  ネヘミヤ記           8章 1節~3節、5節~6節、8節~10節
            詩編               19編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  12章 12節~31節a
            ルカによる福音書       4章 14節~21節

      
説教 : 『 主の恵みの年 』    光延博牧師(信徒代読) 
            
      教会讃美歌 :  49、 181、 171、 382

イエス様は、絶望(滅び)に向かわせる悪の力からの誘惑と向かい合われ、御父の御力によ
って御父の真実をご自身の内で確認されました。人間にとって最も切実な問題として、「食べ
ていくこと」があります。食べる物さえあれば救いなのだから、パンを提供していくこと、物
質的に人間の渇望や要求に応えることが、救い主の働きであるはずだ、というこの世の声があ
ります。その誘惑に対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」とご自身の内に
確かめておられます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(322)という
御言葉を聴き取られたイエス様でありました。神様の口から出る御言葉こそが、人生にどんな
ことがあろうとも、揺れ動かない神様からの救いであることを決定的なご経験の内に知ってお
られます。人生の、何が起こるか分からない、これからの歩みを御言葉に生かされて歩んでゆ
かれます。そして、この御言葉が最後までイエス様を支えたことを私たちは知っています。山
上の変容の場面でも再度語りかけられます。イエス様の日ごとの独りでの礼拝でも聴かれて行
かれました。ゲッセマネで、十字架で、御言葉の真実が貫かれます。なにがあっても、私は御
父に受け容れられた私である、御父のその祝福と守りがここにある、この事がご自身を救った
事でありました。この事を宣教してゆかれるのです。
 

 ガリラヤに帰り、ナザレの会堂での礼拝の場にゆかれます。イザヤ書の巻物を渡されたイエ
ス様は、18節から書かれている箇所を選び、そこを拝読されます。イエス様の宣教の心です。
これは御父の心です。御父のご愛を全身に受けておられるイエス様は、御父と思いを全く一つ
として、その御父のご愛をそのままに現してゆかれます。「主の霊がわたしの上に(御父の御
働きがわたしの上に)」という宣言から始まります。自分が神様の上にあるのではない。神様
とは、自分の要求を叶えさせる自分の道具ではない。御父が主であり、わたしは従である。わ
たしが御父を愛する前に、御父がわたしを愛して守っておられる。イエス様は御父のご愛に満
たされておられます。その福音を告げ知らせたいという御父の御思い・願いにイエス様は溢れ
ておられます。そして、この親子の関係が、御父と私たちとの関係です。「物事に囚われて不
自由な者は解放され、自由になる。見失っている者は再び神様の恵みが見える。」という御父
の御心が語られます。「解放・自由」(アフェシス)には、二つの意味がこめられています。
「御赦しの御父の中でまったく自由になる」、もう一つは、「解放されて本来のところへ戻る
」という意味です。本来とは、繰り返していますように御父のご愛、そこにいだかれている私
のことです。19節「恵みの」(デクトン)には次のような意味があります。ですから、神様の
「(快く)受け入れられる・ 気に入る・ 歓迎される」年です。人間にとって真の幸福をお与
えになることが、神様の願いだからです。その神様の御心を心とされたのがイエス様だという
ことが、今日の大事な点の一つです。
 

 聖書を朗読し終えられたイエス様が何を語るかと、そこにいた人々は注目します。イエス様
は言われます。語順に沿い直訳するとこうです。「今日、実現された(成就された・満たされ
た・し終えた 〈完了形〉)、この聖句は。あなたがたの両耳の中で。」ここが、今日の聖書
の大事な2点目です。神様の御言葉は出来事になります。「光あれ」と言われたら光は成りま
す。光は私が生まれる前から私にあります。イエス様は御父の出来事として今ここにある解放
、回復、自由の事実を示されました。私たちは御言葉を聴きます。ここにある神の国を受け入
れるか受け入れないかは、私たちそれぞれがする応答です。けれども、受け入れなくても、自
分がその救いの中に存在していることは確かです。この世界は愛なる御父に包まれていること
を否むことは不可能です。
 

 この後、どうなっていったかは来週の日課で私たちは聞きます。イエス様の、権威ある(4
32)、今ここにある救いの告知を聞いた人々は「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言
葉に驚」(22節)きました。しかし「今ここに救いがある」という事自体に、欲の人間の反発
を生ませるものを有します。「ほめる、恵みを感じる」ような感情と反発の感情との微妙な感
情の揺れの中にあるのが私たちではないでしょうか。「どこに救いがあるんだ。いいかげんな
ことを言うな」ということもあります。続きを読んでいくと、人間的側面からのイエス様に対
する人々の受け留めが御言葉を拒む要因になった事実、また、自分の気に入るような仕方でし
か御言葉を聴こうとしない態度に対し、イエス様はそのことへの拒否を語られます。それでは
救われることがないからです。結局、人々はイエス様を殺そうとしたとあります。彼らにとっ
て「気に入らなかった」からです。自分を上に立てていく、自分の気に入るか気に入らないか
で物事を分別する私たちの姿とはこういうものです。神様の自分への御思いなどどうでもよい
、欲の自己を中心にして他者、絶対他者を利用する姿です。しかし、私たちがどうであれ、そ
れとは全く別に、神様の御業は貫かれてゆきます。神様の御思いが廃れることなどありません
。そして、そこに生き抜かれたイエス様は今生きて、私たちに語りかけ続けておられるのです
。後に、お示しになった真理に気づいた人々は復活(開眼)させられて行きました。神様の御
心にこそ、本当に救われていったのです。イエス様の働きかけは止むことなく、私たちの生を
支え、守っておられます。そして励ましの御言葉を今日語っておられるのです。そこに、生か
されてまいりたいと思います。御祝福を祈っております。

 

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