2022年  1月 30日  顕現後第4主日

      
聖書 :  エレミヤ書           1章 4節~10節
            詩編               71編 1節~6節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  13章 1節~13節a
            ルカによる福音書       4章 21節~30節

      
説教 : 『 イエスさまは日本のナザレでは受け入れられない 』
                                竹田孝一牧師(信徒代読) 
            
      教団讃美歌 :  122、 234A、 332、 167

 2000年の沖縄サミット前に責務国の責務を軽減するためにヨーロッパの各国は、サミットの議題にあげよう
としていたことを記憶しています。それは、主の恵みの年、つまりヨベルの年にあたっていたからです。ヨベルの年
は、おおまかにいえば借金が棒引きになる年だからです。その目的は弱者の救済にあったのです。そういう意味
2000年を弱者なる責務国に対して責務の軽減をしようとしたのですが、日本はヨベルの年というものがわ
からなかったために対応が遅れたと、新聞が記していたのを覚えています。

 いや、責務国の痛みということが、わかっていなかったということでしょうか。いかに、第三世界が責務返済に
苦しみ、その責務のつけがそこに住人の生活をおびやかしているということに気づいていなかったということでない
でしょうか。

 司馬遼太郎氏が「明治という国家」で、にほんが国家であり続けられたのは、自助力にあったと言っています。
借りたものを返すというごく当たり前のことを当たり前としてしたからだと言うのです。私も責務国に住んで思うこ
とは、国家の腐敗を見ました。借りたお金を自分の懐にいれている政治家を見ました。こういう国家に借金の
軽減など、言語道断のことであるという気持ちはよくあります。確かに自助力をその国家が持つためにも借金の
棒引きはさらに自助力を失わせるという論法は実に正しいものです。しかし、そういうことを言っている限り、貧
しさに喘いでいる人が多くおり、多くの人が苦しめられ死んでいくのです。一方は猫、犬が一方の人間が食べる
物をえさとしている、一方は自分らの食べるものにもこと欠けている。そういうことが平気で行われていることが、
果たして、神様の望むことでしょうか。

 もし、犬猫がキャッツ、ドッグフードを食べるのはけしからんと今の教会で言ってごらんなさい、たぶん無視される
か、白い目でみられるのがおちです。でも、言わなければならないところまできているのかもしれません。犬、猫に
やる餌のために多くのお金をだすが、責務に陥っている国の多くの人が貧しさに苦しみ、飢えている、そういうこ
とにお金を出す人はいないのではないのでしょうか。

 イエス様が、故郷でわざわざ喧嘩しなくてもよいものをあなたがたの外に救いがあるといったために怒りをかい、
崖から落とされようとしてもなぜ言ったのかというと、自分らだけが救いのうちにあると思って、自分らを根底から
変えようとしないで、貧しい者、捕らわれている人、圧迫されている人に対してまったく自分の痛みとして感じな
いで、偽善ぶっている人の罪をはっきり見せようとしたからではないでしょうか。

 日本のODA(政府開発援助)の援助では、世界の中でも多いほうです。高い額を援助しながら、なかなか
評価を受けないのはなぜでしょうか。それは、自分らが正しい、よい国家であるという自負心からくる、くれてや
る根性が見え隠れするからではないでしょうか。自分らがいかに、他社を痛めつけているか気づかない鈍感さ、
自分自身を変えていこうとしないことが受ける側からすれば見え見えなのです。

 イエス様がナザレに入ったとは、私たち日本に入ったと言ってもよいかもしれません。そして、私たちに私たちの
生活、生き方そのものを厳しく問いかけているのかもしれません。そして、貧しさ、圧迫に苦しんでいる人のこと
を他人事のように思って、自分らがいかに第三世界の人に貧しさを押しつけ、圧迫を生み出している救いの外
にいる人であると言っているのではないでしょうか。私たちの中には救いはないとイエス様は言われるに違いあり
ません。

 さて、私たちは真剣に自分自身を省みることが求められているのではないでしょうか。さらに、主のこの世の伝
道の目的に耳を向ける時がきているのではないかと思います。

   貧しい人に福音を告げ知らせること、②捕らわれている人の解放、③目の見えない人の視力の回復、
④圧迫されている人への自由、⑤種の恵みの年(ヨベルの年、レビ25)を告げること。

 私たちは自分らのパンのことでは熱心になりますが、人のパンのことになると精神的なところに止まって、手を
出さない、ましてや自分自身の生活を、自分自身を変えていこうとしない冷たくなる自分に気づく信仰の感性
を持ち続けることです。ナザレの人たちにイザヤの言葉をかりてイエスさまが伝道の目的をはっきりと示しました。
そして、彼らもそのとおりだと受け止めました。しかも貧しい人に愛の手をと言って、自分自身に関わってこない
とき、ましてや自分自身を深く反省、自分自身を変えないですむ範囲ならば、伸べていくかもしれません。しか
し、それが自分自身と関わるとき私たちも豹変する可能性があるのではないでしょうか。そういう自分をよく見て
いくことがこれからの世界において大切です。どこまでも相手のパンの問題を自分らのものとして受けとけるので
はなく、精神的な物として受け止めていく冷たさに主が挑発的に戦った相手は、ナザレの字とではなく、自分ら
であるということに気づくことです。

 そこで、私たちは、どうすればよいのでしょうか。主の伝道の目的を自分のものとして受け止めていく日々の信
仰の生活だと思うのです。それは、当たり前のことといえば、当たり前のことをするのです。そのために自分自身
を根底から変えていくことが必要ではないでしょうか。自分の生活を変えていくことです。今、自分がしている生
活に対していかにイエスさまの生活から遠いものであるかということを見直していくことです。そのために自分に痛
みがともなうことを恐れないことです。いや、自分の痛みなしでは、きっとイエスさまの目的を達成できはしないで
しょう。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあ
るように自分を捨てることです。自分の安楽の今の生活を捨てることです。この強い痛みこそ、イエスさまの伝
道の目的を心から自分のものとできる信仰となるのです。

 生活の一歩からの私たちはできるのです。私たちの国はいかにエネルギーを浪費しているのでしょうか。いかに
食料を浪費しているのでしょうか。この浪費が貧しい国の人をいかに苦しめているでしょうか。エネルギー、食料
の不平等を生んでいるでしょうか。気づくことです。

 ほんの一例です。私たちは便利な自動販売機というものに慣れています。しかし、このエネルギーは、莫大
なエネルギーをかりなくてもよいという人もいます。私たちが少し不便になれば、エネルギーを貧しい国へまわせ
るのです。もっと簡単なことは、家中の使わない電気製品のコンセントを抜くと消費電力がぐっと減るのです。食
料も同じです。

 今までの私たちの生活をみて、イエスさまが私たちの所にこられたら、このナザレの人に語ったように、私たちの
中には救いがないと挑戦的な私たちと戦ってきます。私たちは主が私たちに顕れて来られても、主の目的を達
成している主の民として今、日々、自分を捨てて、自分の生活を変えていく努力をお見せできるように、日毎
から自分の生活を根底から変えていくようにいたしましょう。

<祈り>導き主なる主よ、わたしたちが「あなたのこころをあなたの心として受け止めて日々を歩めるようにして
ください。今の生活をあなたのみ言葉によって変えられていくことに勇気をもって変えていくことができるようにして
ください。主、イエス、キリストのみ名によって祈ります。

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