2022年  10月 2日  聖霊降臨後第17主日(緑)

      
聖書 :  ハバクク書           1章1節~4節、2章1節~4節
            詩編               37編 1節~9節
            テモテへの手紙Ⅱ       1章 1節~14節
            ルカによる福音書       17章 5節~14節

      
説教 : 『 能力と愛と思慮分別の霊を 』
                               木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  132、 386、 395、 262

「つまずきは避けられない。」 「だが、それをもたらす者は不幸である。」
つまずかせる者とは? 兄弟の罪とは??
文脈からすると、人をつまずかせた人の罪をさすのか??!

塚本虎二訳「罪のいざないが来るのは致し方がない。だが、それを来させる人はわざわいだ。」
人を罪にいざなう、とは、具体的には何を指すのか、詳細に分析すべき課題が含まれましょうが
ひとまずは、置いておきましょう。

塚本は続けて、「人を罪にいざなわぬよう注意せよ。」と付記しております。

人をつまずかせた人を戒めなさい。悔い改めれば、赦してやりなさい。「七回『悔い改めます』と
言って来るならば、赦してやりなさい。」

そこで、聞いていた使徒たちは、たぶん、「一日に七回も赦すということは、自分には実行不可能な事
であって、出来ないなあ!! それが出来るためには、自分の信仰が強くなれば出来るのではないだ
ろうか、と考え・判断して、信仰が増せば出来るに違いない?! その信仰をイエス様から補強してい
ただこう!!と願って「わたしどもの信仰を増してください」と言った、と読み取れます。
とすれば、ここでその使徒たちに応えて、イエス様がおっしゃった言葉を、我々はどのように受け取れ
ばいいのでしょうか。まず、肯定的なのか全否定的に摂るべきであるのか。一見したところでは「信仰」
について、読み手の私には決めかねる迷いが起こります。
助けてとして、塚本虎二訳を読みますと、彼はそこの所を明確にして、表記していますので、その解釈
を執ることにしました。

塚本虎二訳 イエスがおっしゃった「もしあなたがたに芥子だね一粒ほどの信仰があれば」を反語
として捉えて、訳注を付けて訳しております。例えば、「お金が私木下牧師に在ったら、島田の教会の
土地400坪余の土地を買い取って、教会員が自由に教会活動などに使用できるようにしたかったの
ですが・・・」これは反語であって、事実は私には購入出来る金が無いのは明白なことなのですから、そ
れは考えただけで購入はできなかった。そういったニューアンスの言い回しとしてとっています。

塚本虎二訳「使徒たちは主に言った、『もっと信仰を下さい。』主が言われた、『もしあなた達に
芥子粒ほどでも信仰があれば、――
あなた達にはそれがないが、もしあればーーこの桑の木に
むかい『抜けて海に植われ』と言っても、言うことを聞くであろう。

「そのようにあなた達も、神に命じられたことを皆なしとげた時、『われわれは役に立たない僕だ
、せねばならぬことをしたまでだ。褒美をいただく資格はない』と言え。」

最初に契約した内容の仕事を全部したからと言って、ご褒美を期待するな。契約した内容の仕事を行ったまでの事なのだ。と。
同じ日に七回も負債を負わされたのに、それでも赦すことは自分には出来ない。
信仰が増せば出来るかもしれない。そうだ、信仰があればね! だが、あなたがたには、そもそ
も、その信仰自体が芥子だね程もないのだから、最早、信仰が増えれば出来ると言った問題で
はないのだ!!

さあ! それならば、私共はどうすればいいのだろうか??!!
  ここから、福音書を始めパウロ書簡も含めた新約聖書全体から、本日のメッセージを読み取
るならば、説教題の「能力と愛と思慮分別(謹慎つつしみ)の霊を」神はわたしたちにくださった
のです。

  ここにきて、ここのテモテへの手紙の言葉が私の中で結びつくのであります。
テモテへの第二の手紙はパウロの遺言状と言われています。67年処刑の2,3ケ月前に書か
れた手紙であったからです。

今日の定説では、マルコ福音書が三福音書の中では最初に成立したのですが、その時期はローマ軍によるエルサレム包囲と、それに
続く70年のエルサレム崩壊の前後を成立年としております。ですからルカ福音記者はマルコ福音書とパウロの手紙を同時に読む機会
を持ち、且、ルカの固有資料であるイエス語録も挿入してルカ福音書を書き記したと定説になっています。これ等の推論からルカ福音書
は70年から80年の間に成立した見方が有力であります。

  パウロの手紙は、四福音書が成立する10年から20年前には、教会の礼拝に於いて朗読さ
れました。

パウロはキリスト教徒への迫害の途中で、キリスト教への回心に至ります。それが起こったのは紀元34年前後であろうと推察されます
。さらに、彼の年齢はナザレのイエスとは10歳ほど年下の年代ではないかと思われます。

パウロの死は59歳前後にローマで斬首刑による殉教へと至りました。
聖書に残されているパウロ書簡は、テサロニケ①の51年頃からテモテ②の67年までの晩年の
16年の間に書かれた書簡集です。

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現され
るのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」ローマ1:17

  これはパウロのキリスト教信仰の入り口であり、基本理解です。そのことを抑え、基本に立っ
て生き、学び、伝道したのです。続く35年間の伝道活動を経てゆく中で、ガラテヤの手紙(54
年)、テモテⅡの手紙(67年)の中では繰り返し「聖霊の実」につながる内容を語っているのです
。「聖霊の実=霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です
。これらを禁じる掟はありません。」「力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです」1:7「
清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」「主の僕たる者
は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導か
ねばなりません。」2:22-24

「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自
分の務めを果たしなさい。」4:5

ここで「霊の実」とは、「霊性の実」と言い換えても良いでしょう
霊性は救われるための必須の要件ではありません。ただ、イエスを信じて!!救われてゆくの
です。

しかしながら、大多数の人は、信じた後に、残された自分の人生を生きて行かねばなりません。
キリスト・イエスを証しして生きてゆくのです。言葉で、態度で、又、生き方それ自体が証しなので
す。

パウロの35年余りの年月がそうであったのです。諦めたり、自分が意図しないちょっとした言葉
遣いが、相手をつまずかせたりするのです。こちらは間違っていなくても、相手の理解度に副っ
た仕方で教えなかったゆえに、誤解されたりすることは、私にも多々ございました。

それでも投げ出さずに、教え続ける他はないのです。
「その事は私の間違いであるのですから、牧師をやめます」
「あなたが受けた按手の務めを果たしなさい!!」と叱責されました。
霊の実=霊性の涵養なしには、内奥深くに、理性的には何とも出来ない欠けを残したままの自
分には、一貫した勤めの継続は至難の業なのであります。

霊性の涵養には「祈り」は欠かせません。祈りには一日24時間の或る時間を聖別するほかは
ございません。自由口誦祈祷だけでは、長く続けられませんので、それに加えて沈黙の祈り・非
言語祈祷への勧めがキリスト教の長い伝統の中に細いけれども明確でしっかりとした道筋が受
け継がれてきているのです。

今で言うところの非認知能力の涵養によって、心と身体が養われて、本来の務めに己を押し出
して行けるのです。食べ物によって身体が養われるのと同じく、沈黙の祈りは、明確で重要な営
みなのです。

パウロは35年余に渡る伝道活動の中で、イエスを信じて生き抜くためには、必要なことであっ
た、と自らの体験と実践の中で痛感していた事であったのでした。 それゆえに、教会の礼拝に
集う人々の前で、朗読されることを期待して、パウロは聖霊の実を結ぶ大切さを書き送ったので
した。


主よ、わたしどもを、憐れんでください。 アーメン。


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