イエス様の説教には特定の聞き手がありました。
私たちが読んでいる聖書は誰でも読むことができますので、イエス様の説教は個別的なものではなく、一般
的なメッセージであると錯覚してしまう時があります。しかし、イエス様の説教はどんな人が聞いているのか分から
ないようなところで語られたものではなく、特定の人に向けた説教でした。ある時は、それは弟子たちに向けられ
、またある時には徴税人に向けられ、そしてある時には律法の専門家に向けて語られたのです。
さて、今日の物語は、9節に記されているように、イエス様が 『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を
見下している人々』に対して話された譬えです。特に名指しはしていませんが、それがファリサイ派の人々であ
ることは明らかでしょう。と言いますのは、ここには彼らの特徴が二つに要約されて書かれているからです。
第一は、『自分は正しい人間だとうぬぼれて』、そして第二は、『他人を見下している』ということです。
そのように、自分自身の正しさに頼り、他人に対する優越感を支えに生きている人にとりましては、イエス様
の福音は躓きとなります。自分の力によって救われようとすることとイエス様の十字架による救いとは相容れない
ものだからです。
イエス様はそのような考えを持っている人に対しては、敢えて躓きの石を置かれます。この譬え話は、恐らくフ
ァリサイ派の人たちの感情を徹底的に逆なでするものだったでしょう。イエス様は決して耳に心地よく響く説教だ
けをされたのではありません。時としてはこのような厳しい、また皮肉混じりの説教もされたのです。何故なら、そ
こで気付いていかないと、本当の救いは見えてこない時があるからです。
さて、譬え話を読み進んでいくとこうあります。11節に、『ファリサイ派の人は立って』と書かれています。立っ
て祈るのはユダヤ人一般の習慣ですが、イエス様がここで言われているのは、ファリサイ派の人は人々の注目を
集めるために、なるべく目立つところに立って祈ったということでしょう。そして祈りの内容は 『他の人たちのような
者でないことの感謝』です。同じく11節に、ファリサイ派の人は『心の中で祈った』とありますが、そのような正直
な気持ちを告白したために、口に出しては祈らなかったのでしょう。
律法の表面的な意味だけとらえれば、ファリサイ派の人たちは確かに神様の戒めを忠実に守っていたことで
しょう。そして、そのことを自分の功績としてではなく、神様の導き、恵みによるものとして感謝することは確かに
悪いことではないかもしれません。
しかし、本当のイエス様の福音に触れた者は、自分が受けた恵みに感謝し、そして、他の人もまた同じ恵
みに与ることを願い求める筈です。イエス様はそのように救われた者を世の中に遣わされるからです。
ファリサイ派の人々の信仰はそうではありませんでした。他人との比較で信仰を評価すると、他の人にも自
分のようになることを期待し、神様の恵みをとりなすよりは、人に努力を求めるようになったからです。しかし、私
たちもまた、このファリサイ派の人々の考え方に陥る危険性を持っています。私たちは常に、他人との比較にお
いて自分を評価する社会に暮らしています。そして日本ではクリスチャンが少数ですから、自分を誇るという誘
惑に日々さらされてしまうのです。
ですから、もし私たちがこの物語を読んで、「本当にファリサイ派とは困ったものだ。でもイエス様の福音をしっ
かり受け止めている私たちは大丈夫」 と思ったとすれば、この厳しい譬え話は、まさにそのような私たちに向けて
イエス様が語られたものであると言って良いと思うのです。
ファリサイ派の人々はただ消極的に律法の禁じている罪を犯していないだけではなく、さらに積極的に律法
の命じていることを忠実に実行していました。律法に定められている断食は年一回大贖罪日だけですが、彼ら
は週に二度断食していました。また献金も律法が基本的に定めている以上のものを彼らはしていたのです。
ファリサイ派の人たちは、福音書では“悪役”として登場してきますが、私たちもいつそのようになるか分からな
い、そのような危険性を持っているのです。私たちがそのような信仰の姿勢から逃れるために、次の譬え話の徴
税人の方を見なければなりません。そこに、ファリサイ派には欠けているものが現れているからです。
徴税人は遠く離れて立ちました。何から遠く離れたのか、祭壇からなのか、或いは人々からなのかは明らか
ではありません。でも、恐らくは自分の罪におののき、祭壇から遠く離れて立ったのでしょう。そして、目を天に向
けて祈るのが一般の祈りの姿勢であったのにも関わらず、徴税人は胸を打ち、13節に記されたように、『神様
、罪人のわたしを憐れんでください』と祈ります。
徴税人は自分自身のことを 『罪人のわたし』 と呼びます。全ての人は罪人であり、私もその一人ということ
ではなくて、他の人はいざ知らず、このわたしは確かに罪人なのだという告白です。そして、だからこそ、自分の
力では救いようのない人間だからこそ、『神様、わたしを憐れんでください』と祈るのです。
ファリサイ派の人の祈りにおいては、常に “ わたし ” が主語でした。 これに対して徴税人の祈りにおいては
、“ わたし” は目的語で主語は “ 神様 ” です。 そしてそのような祈りにおいてこそ、神様は自由に、その救い
の業を行える場所があるのではないでしょうか。自分の罪をしっかりと見つめ、それに絶望することは、絶望に終
わることではなく、イエス様の赦しに出会うステップなのです。神様の前に誇るものをまったく持たないからこそ、『
神様、罪人のわたしを憐れんでください』と、ただ神様の赦しを乞い求めるのです。 そして、神様はそのような
祈りに、御子の十字架による贖いという方法でこたえてくださったのです。
イエス様は、この譬え話を14節に記されているように、こう結びます。『言っておくが、義とされて家に帰ったの
は、この人であって、あのファリサイ派の人ではない』、自分の家に帰ったというのは、神殿を去って、もとの日常
生活に戻ったということです。しかし、それはこの徴税人にとって、神様の赦しの中で再出発することではなかっ
たのでしょうか。
これに対して、自己満足にひたって神殿を出たファリサイ派の人の生活には、何も新しいことは起こらなかっ
たに違いありません。自分の力を頼りにしている限り、神様の恵みを見ることはできないからです。
私たちは礼拝で、奉献唱として詩篇51編の一部を歌います。 その51編の19節には『神の求めるいけに
えは打ち砕かれた霊』とあります。
私たちもまた、礼拝に集うごとに、この徴税人のような砕かれた霊をもって、神様の前に立ち、神様の赦しの
中で新しく歩み出したいと思うのです。
お祈りいたします。神様、私たちはいつも私たちの業に、功績により頼んでしまいます。しかし、私たちは罪
の中にあり、自分自身の持っているもので救われることはできません。どうか、私たちがいつも十字架のみ子を見
上げ、そのことによって救いを確信していくことができますように導いてください。
贖い主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
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