2022年  10月 23日  聖霊降臨後第20主日(緑)

      
聖書 :  エレミヤ書            31章 31節~34節
            詩編                46編
            ローマの信徒への手紙    3章 19節~28節
            マタイによる福音書      11章 12節~19節

      
説教 : 『 御働き 』
                 光延博牧師 信徒代読
      教会讃美歌 :  131、 450、 314、 374

今日の聖書には、天の国を宣べ伝える洗礼者ヨハネ(32)とイエス様(417)の言葉に
耳を傾けない人間の側面について書かれています。厳しい神様のイメージをより強く持ってい
たヨハネは、正しい生き方へと改めていくことを強調して宣教しました。イエス様は慈しみ深
い神様と共に、人々と共に歩み、神様の愛を宣教されました。
 今日は宗教改革記念礼拝です。マルティン・ルターが15171031日に『95箇条の提題』を
公開し、討論することを呼びかけたことを宗教改革の始まりとして教会は覚えています。徳善
義和先生の『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012年)などの本か
ら学んでみたいと思います。

 14831110日にルター先生は生まれました。親しい友人の死に接したこと、大けが、落雷
により死に対する恐怖を覚えて22歳の時、アウグスティヌス隠修修道会戒律厳守派に入ります
。未明3時から夜9時までの3時間ごとに日に7回、定時の祈祷を行い詩編を唱えます。一日で
詩編を50編、一週間で詩編全150編を2回唱えたと言います。修道の理想は「清貧」「貞潔」
「服従」。修道士は何も所有せず、生涯独身を守り、キリストに服従するように修道院上司、
そして教皇に絶対服従することが求められました。「祈り、かつ働け」をモットーに、修道院
内での詩編と祈りの生活に加えて、町に出て托鉢をします。そういった生活の中で、修道士た
ちは、神に背き、修道会則に違反する罪を、心の中でも外に現れる形でも行ったことを懺悔し
、特定の償いの罰や課題を課せられてそれを果たしました。修道院全体で行う断食や徹夜祈祷
もある厳しい生活でした。

 当時のことを振り返って、ルターは「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、
私は、神の前でまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足さ
れるという確信をもつことができなかった」と書いています。頻繁に懺悔聴聞に臨み、自分の
罪と思われるものを徹底的に懺悔しますが平安がありませんでした。
 全員が司祭になる修道院でしたので、ルターも24歳になる秋に司祭になります。修道生活を
送りつつ、エルフルト大学での神学研究が命じられます。そこで一冊になっている聖書を初め
て目にしたようです。当時、聖書は貴重なもので、所蔵している所は限られていました。また
、ヴィッテンベルクや周辺の修道院を指導すること命じられます。27歳でヴィッテンベルク大
学に移り、神学博士、聖書教授になり、詩編の講義を開始しました。
 ルターの葛藤は続きました。当時のことをこう書いています。「私は罪人を罰する義の神を
愛さなかった。いや、憎んでさえいた。そして瀆神(とくしん)というほどでないにしても、
こうつぶやいて、神に対して怒っていた。『あわれな、永遠に失われた罪人を原罪のゆえに十
戒によってあらゆる種類の災いで圧迫するだけでは、神は満足なさらないのだろうか。神は福
音によって苦痛に苦痛を加え、福音によって、その義と怒りをもって、私たちをさらに脅かさ
れるのだから』と。私の心は激しく動き、良心は混乱していた」。神様の解放や救いをではな
く、束縛や呪いばかりを感じていました。自分の足りなさを痛感し、自分を律して厳しく生活
しながらも、努力が足りない自分を責め、より一層苛酷な苦行を自らに課しました。
 詩編講義は71編まで来た頃、とうとう新しい認識に至ります。「あなたの義によって私を解
放してください」、またローマの信徒への手紙117の「神の義は福音の中に啓示されている
」という御言葉の中にキリストが見えました。神は「義(正しさ)を、イエス・キリストとい
うかたちで、罪深き人間への「贈り物」として与えられている。人間は信仰によってそれを受
けて救われるという事が分かったのです。そのことを発見したルターは「今や私は全く新しく
生まれたように感じた。戸は私の前に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対
して別の姿を示した」と後に書いています。ルターにとって神様はもはや恐ろしい神様ではな
く、慈しみ深い恵みの神様に全く変わったのです。この体験は「塔の体験」、また「宗教改革
的転回」と呼ばれています。この個人的な経験が宗教改革へと発展してゆきました。
 それから「贖宥状(免罪符)」の問題にルターは向かい合います。贖宥状を販売する説教者
は人々に言います。「あなたのご先祖たちは罪の償いができていないままで死に、煉獄に今い
て苦しみあえいでいる。何もしてやらないでよいのか。金貨がたった一枚、この箱の中でチャ
リンと音を立てるだけで、煉獄の苦しみはたちまち消え、親たちは天国に召し上げられるのだ
」と。このことについての討論会を呼びかけたのが『95箇条の提題』(『贖宥の効力を明らか
にするための討論』)です。

 徳善先生はこのようなことを書かれています。「お札売りやその説教は、確かに宗教的なニ
ードに応えているのです。民衆は安易な形で罪の赦しとか、あるいは罰の免除というものを求
めているわけですし、その民衆の心をそのように動かしていく、間違って動かしていくために
説教が役に立っているわけです。…私はここに宗教がほんとうに自戒をしなければならない一
つの歴史的な事実を、いつもくり返して見るのです。神のことばを説き明かすべき説教が、単
に民衆を神ならざるもの、キリストならざるものへと誤り導く道具に使われている。確かにこ
のお札は民衆のニードに応えているけれど、そのニードは本物のニードではなく、魂の奥底か
らのニードではなく、必要なことではなく、上面のニードにしか過ぎません。…」と。政治に
接近して癒着し、金儲けのために宗教活動をする団体の姿に、そうならないように私たちも自
らを点検してゆきたいと思います。

 95箇条の提題』第一条にこうあります。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが
『あなたがたは悔い改めなさい』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであること
をお望みになったのである」と。当時の教会は「悔い改め」とは「教会に行って懺悔をしなさ
い。少なくとも年に一回はしなさい」ということでした。そうではなく、日々、毎日罪を赦さ
れている神様に向かって心を方向転換(立ち還り・悔い改め)することをイエス様は望んでお
られる、とルターは言います。
 政治的なメシアを求める民族的なニードに洗礼者ヨハネもイエス様もお応えにはならず、そ
の人を救う本当の事実、神様の愛のうちに生かされていることを、生きていくことができる自
分の命の根源である神様を指し示されました。そこに、人と比較しなくてよい、自分の行いに
左右されない、ただ慈しみ深い神様の恵みのみで与えられている赦しと平安、前向きに一歩を
出していく生命があるのです。ルターは、神様の御前で何の善も行えない自分の闇を知る時、
そこに厳然と輝いている救いの神様の恵みと祝福を見るのだと、律法と福音を通して神様は救
いの事実を示されるということを言います。洗礼者ヨハネとイエス様のお働きが重なります。
そして、イエス様が全身全霊でお示しくださった神様の救いの中を、ルター先生と共に、この
一週間を歩んでまいりましょう。


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