2022年  10月 9日  聖霊降臨後第17主日(緑)

      
聖書 :  列王記下            5章1節~3節、7節~15節
            詩編              111編
            テモテへの手紙Ⅱ       2章 8節~15節
            ルカによる福音書       17章 11節~19節

      
説教 : 『 共に生きる 』
                     信徒のための説教手引きより 信徒代読

      教会讃美歌 :  517、 354、 301、 270

  今日の物語は 「イエスはエルサレムへ上る途中」 (11節) という言葉で始まりますが、それに続いて 「サ
マリヤとガリラヤの間を通られた。」
とあります。サマリヤとガリラヤは接しておりますから、イエス様は、その間にあ
る村を通られたのではなく、サマリヤとガリラヤの県境付近を通られたのでしょう。

  サマリヤというのは、確かにユダヤに含まれますが、サマリヤと、それ以外のところに住むユダヤ人の間には、
長い間、憎悪の歴史がありました。もともとの原因といえば、イスラエルがアッシリアやペルシャに支配されていた
時代、サマリヤには多くの外国人が移住し、そのために、伝統的なユダヤ人はサマリヤに住む人々を、選民、つ
まり神の民とはみなさないようになったのです。

  そのように、様々なトラブルが起こりそうな村を、イエス様と弟子たちが歩いて行きますと、10人のらい病人
に出会います。 (らい病は、今はハンセン病と言いますが、ここでは聖書の読み方に従ってらい病と呼ばせて
頂きます。)

  18節を見ますと 「外国人」 という言葉があります。 これはサマリヤ人のことですが、この集団は、ユダヤ人
とサマリヤ人が入り交じった集団だったのでしょう。想像では、ユダヤ人9人とサマリヤ人1人の集団だったと思わ
れます。 理由は後程申し上げましょう。さて、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲ですから、この人々のようにユ
ダヤ人とサマリヤ人が一緒にいるというのは一般的にはありえないことでした。おそらく、らい病という病気が、ユダ
ヤ人とサマリヤ人を一つの交わりにさせていたのでしょう。言い換えれば、彼らは社会から排除されることによって
、一つの群れを作らざるを得なかったとも言えます。 そうしなければ生きていけなかったのです。

  らい病について宗教的に規定した旧約聖書の律法、特にレビ記の13章以下を読みますと、当時のらい
病人がいかに厳しく扱われていたかを知ることが出来ます。らい病人は町から追い出されました。 ということは
、当時の環境では
「死」 を意味しました。 今日の物語に出てきます10人のらい病人は、そのような状況の
中で助け合って生きてきた人々なのでしょう。町を追い出された多くのらい病人は、そのように助け会わなけれ
ば、町を追い出されて間もなく死んでいったと思われるからです。

  らい病人を完治させることができない当時の状況を考えればやむを得ない面もあったのかも知れません。 
しかし、私たちは、その中に多数による少数者の差別を見ることが出来るのではないでしょうか。

  さて、イエス様を見つけた10人のらい病人は、律法に従って、遠くの方から大声でイエス様を呼びます。律
法によると、彼らは健康な人に近づくことが許されなかったのです。 「イエスさま、 先生、 どうか、わたしたち
を憐れんでください。」(13節) 切羽詰まった人間の叫びです。繰り返し申し上げますが、当時の社会はこの
叫びに耳を傾ける社会ではありませんでした。しかし、イエス様は、この叫びに耳を傾けてくださったのです。 そ
して、こう言われます。 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」(14節)らい病はまだ治ってはいません
。つまり、今日の物語の中心は、10人の者は、イエス様の御命令に信頼して、まだ実現していないいやしを、
しかし、必ずいやされると信じて祭司のところに向かう信仰が求められ、そして、そのイエス様の言葉に従う出来
事の中で、「いやし」
が得られていくということなのです。つまり、見ないで信ずる信仰です。
  ルカはここで信仰生活には、感謝することが大切だということを言っているのではないように思うのです。18
節には
「神を讃美するために戻って来たのは外国人」 という言葉がありますから。 これはサマリヤ人だったの
でしょう。

  この箇所は昔から、自分たちは神様に選ばれていると思っているユダヤ人は傲慢で、信仰深かったのはサマ
リヤ人、つまり異邦人であり、だからイエス様はユダヤ人の神様であるだけでなく私たち異邦人の神様なのだ、と
説教されてきました。

  それも確かにあるでしょう。 しかし、ルカが私たちに語っているのはそれだけではないと思うのです。さきほど
、この10人はユダヤ人9人とサマリヤ人1人のグループではないかと申し上げました。 勿論、推測に過ぎませ
ん。 聖書の中には、そんなことはどこにも書いてはいないのですから・・・

  ユダヤ人の9人は、途中でいやされたことを知った時、それこそ、胸を張って祭司のもとへ行くことが出来まし
た。そして、祭司が、律法に従って、らい病がいやされたことを証明してくれれば、彼らは直ちに社会復帰が出
来ました。しかし、サマリヤ人は違いました。 彼らサマリヤ人には、祭司にらい病が治ったことを証明してもらう
道は閉ざされていました。そこで、彼はただ一人、イエス様のところに帰ってきたのです。 それ以外に道はなか
ったのですから。

  らい病を患っていた10人のグループ。 彼らはらい病に犯されていた時、絆が固く結ばれていました。 しか
し、ひとたび、その病気がいやされると、その結びつきは壊れていったのです。

  イエス様は、この9人のユダヤ人に、祭司の前で、このサマリヤ人を弁護して、病気が治った後も、この交わ
りの関係を続けていくことを期待しておられたのではないでしょうか。しかし、その期待は裏切られたのです。 こ
こに、私たちの抱えている
「罪」 の問題があります。
  おそらく、このサマリヤ人が生きていくのには、まだまだ困難が付きまとっていくに違いありません。サマリヤ人は
、祭司から
「病気が治った」 という証明をもらうことができませんし、相変わらず、ユダヤ人はサマリヤ人を迫害
しています。 偏見と差別は続くでしょう。でも、それにも関わらず、彼は大きな恵みを得ました。 神様は祈り
に応えてくださるという確信を得ることができたのです。 世界を、歴史を支配しておられるのは自分たちを迫害
している多数派のユダヤ人ではなく、サマリヤ人にも目をとめられる神様であるということを知ったのです。

  二つのこと。 世界を動かしておられるのは苦しむ者の祈りに耳を傾けられる神様であるということ。 そして
、その神様は小さな自分の祈りも聴いてくださるということ。 これを確信して、イエス様に従っていくのが信仰な
のです。

  イエス様は、こう言われます。 「立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。」(19節)
  この言葉に支えられ、イエス様の言葉に耳を傾けながら歩んでいきたいものです。

お祈りいたします。
神様、あなたは私たちを造り、今も私たちひとりひとりを導いてくださいます。 私たちは、慌
ただしい日常生活の中で、いつも自分自身のことにのみ目を向け、隣人を忘れそうになってしまうときがあります
。 どうか、このような頑固な心を開き、あなたに支えられ、隣人と共に歩んでいくことができますように。

主の御名によってお祈りします。  アーメン


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