2022年  11月 13日  全聖徒主日(白)
      
聖書 :  マラキ書               3章 19節~20節a
            詩篇                98編
            テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章 6節~13節
            ルカによる福音書         21章 5節~19節

      
説教 : 『 キリストの証人として立つ 』
                 信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  276、 137、 135、 290

来週で聖霊降臨後主日も終わりになり、いよいよアドベントを迎えます。

  エルサレムの神殿は荘厳で美しく、ユダヤの人々にとって大きな誇りでした。ユダヤ教の中心聖所で、毎年
祭りの度ごとに多くの巡礼者で満ちていました。ちょうど「過越祭」の前で、町中には巡礼者たちで人々が溢れ
かえっていたでしょう。ユダヤ教の三大祭りと言われている祭りがありますが、過越祭はその中でも最も大事な
祭で、巡礼者も多かったと思います。


  「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」のは、おそらく神殿の美しさと
奉納物の見事さをたたえていたのでしょう。イエス様の弟子たちもエルサレムに来る度に、神殿の壮大さと美し
さに心を奪われていたでしょう。そこで、イエス様はその人たちに、「あなたがたはこれらの物にみとれているが、一
つの石も崩さずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。つまり、この見事な神殿が「瓦礫の
山になる」と言われたのです。事実、エルサレムの神殿はイエス様の預言通り、およそ40年後にローマ軍によっ
て破壊されてしまいます。どんな見事な建造物であっても、それは所詮、人の手による物です。人が作った物
は人が壊すことができます。


  それを聞いた人たちは、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どん
な徴があるのですか」と尋ねました。

  人々の関心事はいつもそこにあります。それは「いつ起こるのか」と「何が起こるのか」です。「いつ起こるのか」
については、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じ
である」(マタイ24:36)と言われました。このことについて、終末の日時を予想して人心を惑わす多くの集団や
人物が現れます。他宗教の人たちの終末の予告、ノストラダムスの予言などは聖書に何の根拠もありません。

イエス様はこれらのことを含めて、「私の名を名乗る者が大勢現れる」と警告されました。つまり、「偽メシア」の
出現です。自ら「メシア」と名乗る者は、すべて「偽メシア」です。「時が近づいた」という噂や、「わたしがメシヤだ
」という者に「惑わされないように気を付けなさい」とある通りです。


  終末には、戦争・暴動の噂、民族間の対立、国家間の紛争、地震の発生、飢餓の到来、疫病の蔓延
、天地の異変などが起きると言われました。しかし、それは、終末の「徴」ではあっても、終末そのものではありま
せん。「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」からです。

  そのようなことが起こる時に、キリスト者には迫害、投獄、裁判などの苦難が起こります。苦難は避けられれ
ば避けたいものですが、しかし、避けがたきものとしてキリスト者を襲ってきます。これらの苦難は、「あなたがたに
とって証しをする機会になる」とイエス様は言われました。これまでのキリスト教会は多くの苦難の歴史を経てき
ました。平穏無事な時代よりも、教会はむしろ苦難の時代のときにより良い証しをしてきたのです。それは、苦
難の時代の方が、キリストの福音がより鮮明に明らかにされるからです。


  今の日本では、キリスト教に対する表立った迫害や圧迫はありません。信教の自由が憲法で保障されてい
ます。ですから本来ですと自由に宣教できるはずですが、伝道は進展していません。安心・安全であることによ
って、かえってキリストの福音が薄められてしまったのではないかとさえ思われます。

  大量生産・大量消費による飽食の時代、大部分の人々が生活の不安を抱えることもなく、自分の力で生
きて行けると自信満々の生き方をしています。しかし、その豊かさの裏で、能力や実力によってしか評価されな
い価値観から脱落した人々が傷つき、嘆き、叫び声を上げています。私たちはこれらの小さな声を聞き漏らさ
ないようにしなければなりません。迫害や投獄や裁判が、現実なものとして身近に感じられないとしても、それ
で「証しをする機会」がないわけではありません。迫害や投獄や裁判という「負の要因」が、かえって「証しをする
機会となる」と言われるイエス様のみ言葉を心に留めておきましょう。


  次に続く、「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」は普段から何もしないでよいという
意味ではなく、そのときになれば、だれも反論も対抗もできないような「言葉と知恵」を、イエス様自らが授けてく
ださるという約束です。裁きの座において、聖霊自らが語るべきことを教えて下さるので、聖霊なる神様への信
頼が求められています。


  家族や友人などの裏切りや、憎しみをかうことがあっても恐れることはありません。私たちがどんな苦難や迫
害を受けようとも、私たちは「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」と言われる神様のみ守りの中に置
かれていることを信じましょう。私たちはすでにイエス様を信じる信仰において「永遠の命」に与っています。です
から、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取る」ように勧められているのです。私たちの命も死も、すべて神様
のみ手の中にあります。その神様の恵みの計らいと憐れみを信じて、信仰を全うしましょう。


<祈り>
  天の父なる神様、私たちの命も死も、あなたのみ手の中にあります。私たちに苦難が襲う時、すべてをあな
たに委ねることができるように導いてください。そしていついかなるときも、あなたの証しをすることができるように、
聖霊の助けをお与えください。アーメン


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