『今日なんじは我と偕にパラダイスに在るべし』
この言葉を自分に向けた言葉として受け取るならば、パラダイスに入るのはどの私なのでしょうか。
例えば、他の人が私を識別する場合には、私の姿形で私を識別することになりますね。「あの人は木
下だ」と。目の不自由な人にとっては私の声を聞いて私だと認識します。2019年4月から再びこの富士
教会に説教応援で、参ることになったのですが、その時に緒方さんに声をかけまして、「木下です。久し
ぶりですね。わかりますか」と。そうしましたら、「木下先生の声は変わりませんね」と応答してくれ
ました。それであー私だということが緒方さんは、わかっているのだなあと思ったわけです。
ところで私たちの人生が終わり、姿形がなくなる時には私はどうなるのかな? 私を識別する標は皆さ
ん方の記憶と思い出の中にあるのかなあ、思い出の中ではどの年齢の私なのだろうか、二十歳すぎ
の頃に頃富士にいましたし、今は90歳に手が届こうとしている年齢になっております。
11月6日の全聖徒の礼拝の折に一瞬、清水冨子さんの遺影をさがしました。少しうろうろしてから、清
水勅彦さんと清水富美子さんお二人が一緒に写っている写真に気付いたのです。それをFacebookに
紹介しましたところ、我が家の上三人の子供が若かりし頃の二人の写真を見て懐かしがって、それぞ
れから声がかかってきました。そうしますと晩年の清水さんご夫妻を見ていない子供たちの思い出の
中は、若かりし頃の清水さんご夫妻のお姿であるわけです。
本日の福音書の中で、イエス様が一人の犯罪人に約束して言った「今夜あなたは私と一緒にパラダイ
スに入る」 この言葉は一見、単純明快でありながら、きわめて意味深長な言葉として、わたしを宗教
の深遠な領域へと導いてゆきます。
姿形声、外見上で識別する姿型に拠らない私がパラダイスに入るとはどういうことなのだろうか。
私を私として成り立たせているのは姿形声そういうものとはまた別の何かが私を私として成り立たせて
いる要素が大きい、少なくとも小さくはない。
私の姿形声音がなくなったとしてもなお私を私として識別してくださる存在者(神)がおられるとすれば、
それは何によって私を私として識別しているのでしょうか。
この問題は極めて宗教的な問いであると言えます。
夏目漱石の小説「門」で、主人公の宗助が禅寺に参禅して老師から与えられた「公案」として、「父母
未生以前本来の面目は何か」というものがありました。
「自分が生まれる前の更に前の、父母が生まれる前において自分は一体何だったのか」あるいは「ま
だ自分が母の胎内を出る前の、つまりいまだ生まれ出ずる前の汝の心境を言ってみよ」というような意
味かと思います。漱石自身も27歳の時、厭世気分に陥り、鎌倉の円覚寺で10日間の参禅をしていま
す。その時、老師から出された「公案」が「(一切放下)父母未生以前本来の面目は何か」だっ
たそうです。
漱石も老師が満足するような答えは出来なかったそうです。
私は禅形式による瞑想を生活の中に取り入れておりますが、既に牧師でありましたので専門道場への
入門は叶わずに、街場の坐禅修行はそれなりにしてまいりました。カソリック禅の三人の神父さまから
指導を受け、並行して幾人かの禅宗の師家に参禅する機会も得ました。
禅宗に宗旨替えする意思は全くありませんが、今もその延長線上におります。ルター派の牧師であり
ながら、こうした経験を経て、私自身としては、宗教全般が持っている深さと広さについてより深く学び
得たと思っております。
禅冥想を実践する初期の頃、坐禅仲間から聞かされた言葉に、「頓悟(とんご)」と「漸悟(
ぜんご)」がございました。ただちに悟りの境地に達することを頓悟,順を追って次第に悟りに近づ
くことを漸悟と言います。それゆえに「頓悟」とは、その宗派で定められた経典・教義の研鑽と長くきび
しい修行を経ないで、一足とびに究極の悟りに至ること。仏の真実に触れ、即座に仏果を得ることを言
います。
柳田聖山などは頓悟漸修を最高とする、と述べています。聖書のパウロはクリスチャンを迫害するダ
マスコ途上でイエスの幻の出現によって頓悟して、その後直ちに、漸修の道を生きた典型的な伝道者
だったと言ってよいでしょう。本日の福音書に十字架につけられた一人の犯罪人が言った言葉は、「頓
悟」的な境地を表していると思います。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをし
ていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
と言った。23:41⁻42
十字架に架けられていたこの犯罪人は、宗教的な修行を長く積み重ねて来たとは思えない人であるに
もかかわらず、ただただ自分の息の根が止められる状況を契機にして、一緒に十字架につけられてい
るイエスは当然ご自身の御国へ行かれる方である。自分は御国へは全く行けない罪人である。この自
分を識別する姿形がこの世から無くなるだけである。しかしながら、自分が確かに存在していたことを
、「イエスよ御国でわたしの存在を思い出してください。そうすれば、自分にとって、これ以上の幸いは
ございません。」全く、普通の祈りの起承転結の形式からは外れつつも、しかし彼の願いの言葉が率
直にイエスに向かって投げかけられたのです。当時のユダヤ教の祈祷文の形式を超えて、イエスへの
崇敬と己の願いが率直に述べられています。イエスはそれを真正面から受け止めて宣言したのです。
「われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と偕にパラダイスに在るべし」と。
イエスのこのみ言葉がこの犯罪人への頓悟「憐れみ深い神を直に見た」ことの証言証左であると表明
しているのです。
イエスの言葉を聞いた瞬間に、この犯罪人は喜びに沸き立ち、ほどなくして息を引き取ったのです。
そして、その日の内に、パらダイスに目覚め、真っ先にイエスの御顔を拝したのです。
(付記として) 井上靖の場合(享年83歳)死因 急性肺炎 京都大学哲学科卒業、芥川賞を経て、国民的人気作家となる。
昭和51年文化勲章 79歳秋、食道ガン。81歳肺ガン 病室で書き続けた『孔子』は死後にベストセラーとなった。平成3年1
月、再び国立がんセンターに入院。「大きな、大きな不安だよ、君。こんな不安には誰も追いつけない。僕だって医者だって、
とても追いつくことはできないよ」と次女に語りかけ、やがて静かな眠りに落ちた。そして二度と目覚めることはなかったので
ある。監修=荒俣宏「知識人99人の死に方」p227より引用
日本の偉大な作家であった井上靖は、外目には静かに死についたようだけれども、しかしながら、大
きな不安を抱いたまま逝かれたのではないでしょうか。
主よ、わたしどもを、憐れんでください。アーメン。
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