36節の「その日、その時」とは、いわゆる終末の時・終わりの時のことです。世
の中には、恐ろしい終末の有様を描き出し、人々に不安や恐れを抱かせる団体があ
ります。キリスト教会では、終末を、神様による救いの「完成」の時として心に覚
えます。その事がこの24章で黙示文学的・神話的に表現されています。ここで聖書
が言おうとしている大事な点は、「救いの完成」を受けるというのは人間がその営
みを通して実現する事柄では決してなく、42節で「自分の主が帰って来られる」と
表現されていますように、神様が実現されている事が神様によって示される「救い
に気づく時・悟る時」の事だと思います。
それは歴史内部・通常流れている時間の中で起こる事ですが、言わば通常の時間
とは別に、すでに到来している永遠を垣間見る事柄だと思います。イエス様が「天
(神)の国は今ここにある」(4:17 新共同訳の「近づいた」の意味は、すでに
ここに到来していて、それを私たちが受け取ること・気づくことが残されているだ
けです)と宣教され、またパウロが「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコ
リ6:2)と語った、その「時」の事です。あるいはルター先生が、それまでは隠さ
れていた福音を発見し「今や私は全く新しく生まれたように感じた。戸は私の前に
開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示した」と語
って歓喜に満たされた、神様の福音・ご真実を悟った、あの「時」の事です。それ
は全く自分の力ではなく、神様から与えられたと表現するしかない事です。
イエス様は方々を巡り歩き、一人ひとり個別に向き合われ、あなたが立っている
そこは天(神)の国(ご支配・守り・配慮)の場である、と宣言されました。その
事実をある人は聞いて聞き、見て見、気づいて悟りました。またある人は聞いても
聞かず、見ても見ず、気づかず悟りませんでした。しかし、一度気づいた人であっ
ても、人間の理性で理解できるものではないですから、その瞬間的なその認識がい
つのまにか消えてしまい、再びそれまでの世の認識に戻ってしまうことも多くあっ
ただろうと思います。
パウロはこう言っています。「わたしたちが語るのは、奥義としての隠された神
の智慧である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、時間に先立って、
予め定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この智慧を知って
いた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけは
しなかったであろう」(Ⅰコリ2:7-8小川修訳)と。今自分がいる場は神の国であ
るなどということは人間の知恵では到底理解できないでしょう。神の智慧によるし
か分からない事柄です。
人間は、神様のご真実を完全に現してくださった神の智慧なるイエス・キリスト
を憎み、終に殺してしまう者でしかありません。「目を覚ましていなさい」とは、
「ここにすでにある事」に気づかされる認識がいつ来てもいいように心を開きつつ
待つという態度であると同時に、気づきが深まっていくことに心を開きつつ待つ態
度だと思います。
パウロは終末・究極の事柄に突如気づかされました。そしてそれを大切にし続け
るために「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」(Ⅰコリ9:27)とい
うように「神様の中に在って神様の命に生かされ、神様の命を生きている自分・神
様のものである自分(ガラ2:20)」にとどまるように歩んでゆきました。「栄光
から栄光へ」(Ⅱコリ3:18)、終末・究極(根源)から終末・究極(根源)への
道を歩んで行ったのだと思います。
パウロもルターもいきいきとした根源の命、本当の私、最下底(どんぞこ)から
支えられている絶対不可分の生命、神様に愛されている他との比較が不可能なかけ
がえのない私に気づかされ、そして救われました。この神の国・神の愛から引き離
すものなど何もないと言い得る本当の救い(ローマ8章)にある自分を悟ったので
した。死んでも死なない神様の命である存在として、みんなとそれを共有したい想
いは止まなかったからこそ、困難な宣教の道を自ら決意し進み行きました。
この「時」がいつ来るか、私がいつ気づき開眼するかは「だれも知りません」(
36節)。「神の子」である事を認識し、そこに生き抜かれたイエス様でさえ、一人
の人がいつ気づくかは分かろうはずはありません。イエス様が啓示してくださった
ように、私たち一人ひとりは神の子です。誰一人自分の力で生きている人はいませ
ん。すべて神様からいただいたものです。身も能力も生きる力も環境も縁もすべて
です。私たちはそのことを見失ってしまいます。神様の命を事実生きている私に気
づく事が終末・究極の事です。
その事はみんな仲良く一緒に気づき、悟るということはできません(40,41節)
。けれども、兄弟姉妹と共に(詩133)、聖書の御言葉を聞く時、歌う御言葉であ
る賛美歌を歌う時、神様を見上げる時が神様からの恵みとして与えられています。
その恵みを受けていきながら、本当の事に気づかされる時を神様からいただくのだ
と思います。
命を含めて自分が持っているものをわたくしする霊長と自負する人間の貪りによ
って世界を悪化させ困難を自ら増していこうとも、厳しい現実の中にあろうとも、
にもかかわらず温かい親と子とのつながりの中にあるからこそ「最後まで耐え忍ぶ
者は救われる」(13節)とイエス様は約束されています。
42節にありますように、「目を覚まして」(Ⅱコリ4:18)、「自分の主」(自
分の命の主体・本当の自分)が「帰って来られる」のを、私たちは神様の中に在っ
て、内なるキリストと共に、みんなで一緒に終末の希望をもって旅をしてゆけます
。神様の一つの命である私たち被造物が、同じ命に生かされている者として助け合
って生きてゆける祝福が神様から与えられています。この週も御祝福が皆様の上に
ありますようにお祈りいたします。