2022年  12月 11日  待降節第3主日

      
聖書 :  イザヤ書               35章 1節~10節
            詩篇                 146編 5節~10節
            ヤコブの手紙            6章 7節~10節
            マタイによる福音書         11章 2節~11節

      
説教 : 『 開眼 』
                      光延博牧師 信徒代読
      教団讃美歌 :  94、96、 100、 107

アドベントクランツに3つ目の光が灯りました。2千年前、この世に光を灯してく
ださったお方の到来に思いを巡らしますと同時に、私たちのもとに来て下さってい
る救い主に思いを巡らします。私たちの人生は救い主と共なる人生とされています
。この1年を、これまでの歩みの一つひとつを思い浮かべます。そこには救い主が
共におられました。ローソクの火が4本目に灯る、そして主の降誕主日を迎える時
へと私たちは進んでいます。

個々人の生活状況や精神的な状態とは別に、時は、教会暦は、一年のサイクルで
巡り、クリスマスに至ります。救い主到来の御言葉が語られる時と1年の終わりの
時の中で私たちは、老シメオンの歌を心に覚えたいと思います。「今、私は主の救
いを見ました。主よ、あなたは御言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださ
います。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの、異邦人の心を開
く光、み民イスラエルの栄光です」と。

イエス様が指し示してくださった救いは揺るがない救いです。今、困難な問題を
なおも抱えていることがあります。辛さや悲しみを抱えていることがあります。世
界ではロシアによる戦争があります。様々な苦しみの只中にある方々がおられます
。このようなことが解決され、私たちが願うような平和な明るい日々が到来するこ
とこそ、私たちの祈りであります。祈り続けたいと思います。そして、そのような
祈りの場においてもまた、洗礼者ヨハネとイエス・キリスト両者が、今も私たちに
「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ32417)と語りかけておられる
ことも覚えたいと思うのです。

神様のご支配とは、罪の完全な赦しであり、復活へ向かわせる力が働きかけられ
ている場です。個々人が抱えていることや私たちの社会・世界の抱えている問題が
あるような、聖書が表現している闇の只中に神様の共なる光があると福音書記者ら
は語っています。ヨハネによる福音書冒頭にこうあります。「初めに言があった。
言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は
言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言
の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗
闇は光を理解しなかった」(11-5)。5節は口語訳聖書では「光はやみの中に輝
いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」と訳されています。

愛なる神様の言によって私たちは生まれて来ました。ご愛の中に私たちは今ここ
にいます。命の光はやみに消えてしまわずに、それに打ち勝って今ここにあります
。この光をイエス・キリストがお示しくださいました。洗礼者ヨハネは人々の心を
神様に向けさせて救いを示し、また救い主が来られる道を整えました。

今日の箇所で、ヨハネはイエス様が「来るべき方」、救い主であるかどうか聞く
ために弟子たちを遣わしています。イエス様は本当に救い主だろうか、という心の
声は私たちの中にもあるのではないでしょうか。イエス様がもたらしてくださった
救いは本当に救いなのだろうか、と依然として苦しみのある現実に相対して私たち
の心は疑いに揺れ動くことはないでしょうか。ヨハネの中の救い主のイメージには
厳しく裁きつつ、愛の業へ向けさせるイメージがあったでしょう。また、当時の人
々にはローマ帝国支配下からの解放を求める切なる願いがありました。結果的には
イエス様はそのような救いをもたらすお方ではなかったことを私たちは知っていま
す。人々の願い通りでなかったという理由からもイエス様は十字架にかけられたの
でした。

ヨハネの問いかけに対してイエス様は、実際に起こっている事実だけをお示しに
なられています。5節には驚くべき御業のことが書かれています。ここをどう解釈
するかは一つのポイントでしょう。他の箇所などに聖書が示している、イエス様が
癒しの御業を行われたことについては実際そうだったのだろうと思います。けれど
も、この5節について私はこのように受け取らせていただきました。今ここに神様
のご支配・守り(国)があることを、イエス様によって人々は開眼したのだと。闇
がすっかり消えてしまうというよりも、闇はあるにもかかわらず、神様の光が輝い
ている私であることに眼が開かれたからこそ人々は救われたのだと思います。

共に苦しみ共に生きておられる、神様と共に生きておられるイエス様から受けた
恵みによって、愛なる神様が共におられる自分を知ったのだと思います。この神様
の真実が心の眼で見え、立ち上がらされ、清くされている清い自分に気づき、神様
の愛の御言葉を聞き分け、親である神様の愛を忘れて死んでいたのに、その愛に気
づいて生き返り(ルカ1524)、貧しい者は貧しいそのままに福音を告げ知らされ
て力を与えられたのだと思います。そのようなことが実際に起こっていたのだと思
います。このことが本当に私たちの救いだと思います。

いつでも私たちの脚下にこの神様の国が与えられているということをまず私たち
は覚えたいと思います。私たちの脚下に神様の願いと実行・実現が来ています。イ
エス様はその神様のご真実に立って、神様に愛されている自分を大切に、神様に愛
されている他者を大切になさられました。そのように生き抜かれたイエス様だった
からこそ、その真実が現れたのだと思います。詩編23編に「恵みと慈しみはいつも
わたしを追う」とあります。慈しみの神様の想いが追って来る、絶えず共にいてお
働きくださっている神様をイエス様は見ておられたと思います。私たちは、私たち
のこの身にも、この世界うえにも同様にそのお働きがあることに心を向けたいと思
います。

厳しい貧しさの中にある方々が安心して暮らせる世界となるように絶えず働かれ
続けておられる神様の、その願いを大切にする力が神様から与えられます。まこと
の光が闇の中で祈っておられます。神様のもとから来られたイエス・キリストが私
たち一人ひとりに神様の光が灯っていることを今教えてくださっています。そして
、私たち一人ひとりの存在と働きが、神様の御想いを映し出している光であること
に心の眼を向けたいと思うのです。だからこそ、これからも神様の光を共有し、困
難にある方々を助け、支え合う私たちに、平和を求めてその一歩を踏み出してゆく
私たちに、イエス様と共にならせていただきたいと思います。クリスマスの平安と
喜びが皆様のうえに豊かにありますように。

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