2022年  12月 4日  待降節第主日

      
聖書 :  イザヤ書               11章 1節~10節
            詩篇                 72編1節~7節、18節~19節
            ローマの信徒への手紙      15章 4節~13節
            マタイによる福音書         3章 1節~12節

      
説教 : 『 気づきが来る 』
                      木下海龍牧師
      教会讃美歌 :  13、 3、 7、 290

本日の説教題はロマ書15:4-5からとりました。

この書簡はパウロ書簡集の中では終わりの頃に書かれたものであります。本書簡を書いた時は、既
に地中海沿岸地域の北東部に教会を創設し終えていました。紀元58年の復活祭の前、書かれた場
所はコリントに滞在していた三ヶ月の間のある時、すなわち57~58年にかけての冬と推定されていま
す。

60年頃にローマに於いて、獄に収監され、ほどなく殉教するにいたったのでした。

 キリスト教は古来伝統的に、待降節第2主日は「バプテスマのヨハネと悔い改め」を主題にした主日
として守られて参りました。

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3:1-2

確かに、信仰者であっても、朝毎に、神の前に、悔い改めて、諸々の煩悩にいざなわれることなく、
本来の自分がなすべき務めを果たそうとして、新たな気持ちで、その日の生活を始めます。そして、夜
の就寝時には、なにがしかの感謝と懺悔と取り成しが心中に去来して眠りに落ちてゆきます。

 こうしたリズムが毎日であるかどうかは別にして、こうしたことが繰り返されて、その人は地上の生涯
を終えてゆくのであります。

 告白すべき懺悔がありつつも、恐怖は無いのであります。それは主であられるイエス様から差し出さ
れた「ピステス・まこと」に抱かれ、それに信頼しているからであります。

 今年の教会暦の特徴は使徒書に、ロマ書5章を登場させていることであります。

「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで
くださった。」ロマ5:5-6

私どもがまだ神の存在と御心には全く振り向きもせず、神を崇敬する気持ちもなかった時期に、既に
自分のために身代わりになられた出来事があった。それには、全く気づかなかった状態で生活してい
たにもかかわらず、私のために死んでくださった。(私自身の場合は・・・・

不思議な導きによって、十字架の出来事の意味に気付いて、信仰を抱いている今は、なおさらに、私
への赦しと慰めと希望を約束されないはずはあり得ないからであります。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったこ
とにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の
怒りから救われるのは、なおさらのことです。


  敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させて
いただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。5:8-10
 

 洗礼後に私共が立っている位置は、それ以前とはある意味で次元が異なるのですね!!

恐怖だった出来事が慰めへと代わる体験をすることになるのです。聖霊によって、神の愛が自分に
注がれていることに気づいているからであります。

 こうしたことをパウロが語る経緯には、彼が27歳ごろにイエスの幻に撃たれて、迫害者から回心して、
イエスの十字架と復活を宣べ伝える30年余を伝道者として生きてきた人生を経た今、成長したと思
える面と依然として、未熟で替わっていない自分の内面に気付いているからなのです。

 ある時、数十年ぶりに、聖書学院時代からの友人に教文館でばったりと会いました。彼は一瞬私だ
と認めてから「木下君!!替わったね!」と、とっさに口に出しました。ただそれだけで別れました。私
はわたしであって、自身の意識では何ら変わってはいないのですが、彼は戦時中も牧師であった父上
が官憲によって捕縛されたりした生き方を誇りにし、父親を尊敬していた人でした。聖書学院時代から
すると40年が経過していたのです。彼の眼差しはわたしが老人になった、と言う意味とは違った驚き
で私を見ておりました。 わたしなりに、牧師らしさが身についてきていたのでしょうか。

しかしながら一方では、私は自分の未熟さとか、煩悩と言いますか、好奇心に誘われやすい傾向など
を、依然として引きずって生きているのです。そうした未熟さの中にいながらでも、主イエスの慈しみと
慰めの眼差しの注ぎを感じとれるのです。それだからこそ、今や人生の終わりの時をまじかにしても希
望が持てるのです。それはこんな自分はダメな牧師だと失望したりせずに、自分の未熟な信仰に絶望
することもなく、歩めているのは、神のみ旨を受け止めて実践して神ご自身の人間への愛を身をもって
お示しになったイエスのお働きが今も私の中で行われているのだと確信できるサインを、時に、受け取
れるからこそだ、と言えるのであります。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない
のです。」〕ルカ23:34

ご自分を十字架刑にする人々の罪を父なる神に赦しの取り成しをなさっておられる主イエスでありま
す。ましてや、イエスの崇高な愛の業を懺悔と崇敬の真心をもって、この身に受け止めて、崇敬するに
至ったキリスト者のその後の生活の中での種々の躓きや咎による失望の中にいる信者たちに憐れみ
と慈しみの眼差しを向けられることは確実なのであります。キリスト者は時には躓きつつも、主イエスの
御足の跡にしたがう者であり続けようとしているのであります。時には間違い、見当違いもあるでしょう
が、今もなされておられる主の取り成しと慰めにこそ、私どもの希望があるのであります。

  バプテスマのヨハネが宣告した「悔い改めよ」に促されて、最初にイエスのピステス(まこと)に招か
れて生活を始めてから、第二のピステス・私自身の自覚的な信仰へと啓発させられてきたのでありま
す。その自分に向けられ、イエスによって差し出された神の命が自分の命を生かし、今まさに自分のな
かで息づいている、それに気づき、自覚していることがすごい事なのであります。

「キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
それゆえにキリスト・イエスに倣って、互いに同じ思いを抱き、心を合わせ、声をそろえ、父なる
神をあがめることが大切であるのです。 主日の礼拝とは、主イエスに倣って、集う信仰者一同
が 同じ思いを抱いて、心を合わせ、声をそろえて、すべて命あるものの父上である神様をあが
め称える共同の作業であるのです。

  主よ、私どもを、憐れんでください。私を生かしてくださる主を賛美します。 アーメン。

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