2022年  2月 13日  顕現後第6主日

      
聖書 :  エレミヤ書           17章 5節~10節
            詩編               1編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  15章 12節~20節
            ルカによる福音書       6章 17節~26節

      
説教 : 『 気休めではなく 』
             信徒のための説教手引きより   落合成光牧師
            
      教会讃美歌 :  277、 316、 498、 285

 今日私たちに与えられました、この聖書箇所を読んで、まず考えますことはどんなことでしょうか。ああ、これは
マタイによる福音書の「山上の説教」と同じところだと思われるでしょう。

 しかし、マタイによる福音書と違うところもあります。今日の日課は617節から始まりますが、そこには、こう
あります。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」

 マタイでは山上の説教という名前の通り、イエス様が山の上でお語りになった説教になっていますが、ルカでは
イエス様が山から下りてお語りになった説教、通称平野の説教と呼ばれているのです。

 イエス様はどんな所で、子の説教をお語りになったのでしょうか。ある人は、山のふもとから見れば山上で、山
上から見れば平地の山の中腹ではないことかとこじつけていますが、私たちはむしろ、この場所が持っている象
徴的な意味を考えてみたいと思います。

 今日の日課の少し前に612節には、こうあります。「そのころ、イエスは祈るために山へ行き、神に祈って
夜を明かされた」ルカによる福音書では、山というのはイエス様の祈りの場所であり、天からの啓示の場所として
描かれているのです。

 出エジプト記には、モーセがシナイ山に登り、そして十戒を初めとする神様の律法をいただいたという記事があ
りますが、その時イスラエルの民は山のふもとで待っていました。山は、普通の人は登ることが許されない特別な
場所だったのです。祈りの場所と言っても良いでしょう。それに対して平地、平野は、イエス様が民衆と出会い、
触れ合い、神の国を宣べ伝える場所として描かれています。17~19節にはそのことがよく描かれていると
思いますが、平地はイエス様の活動の場所なのです。

 もうひとつのことを考えてみますと、地はヘブライ語で“アレツ”と言います。そして地の民のことを“アム・ハーアレ
ツ”と呼びます。アム・ハーアレツというのは、身分の低い人という意味です。イエス様はまさに、そのような人々の
中で生活し、共に歩み、み言葉を語られました。ルカはそのことを表しているのではないでしょうか。

 イエス様はそのような人々が集まっている所で説教を始められます。「貧しい人々は幸いである。」口語訳で
は「あなたがた貧しい人たちは、幸いだ。」でした。私は、口語訳の方が好きなのです。確かに新共同訳の方
が正確なのですが、イエス様は、ほかの誰でもない、イエス様が説教を聴くために集まっている人々に向かって
語りかけておられるのですから。

 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」というメッセージは、イエス様独自のメッセー
ジではありません。旧約聖書、特に詩篇は“貧しさ”と“敬虔さ”と“救い”を密接に結び付けています。聖書の時
代のイスラエルの人々は、自分たちが神様に選ばれた者、選民であると考えていました。と言いますよりも、神
様によってえらばれたというのが、イスラエル人のアイデンティティーでした。彼らはその意識によってひとつにされて
いたり、大国に支配されながら、人々は貧しい、苦しい生活を送っていました。

 彼らは、その中で神の国を求めていたのです。つまり、イスラエルによって、神の国が来るということは、イスラエ
ルを苦しめている者が裁かれ、イスラエルが苦しみから解放されるという出来事として、人々は待ち望んでいた
のです。しかし、イエス様は、そのような将来的なものとしてではなく、現実のものとして神の国を示されました。
ほかに頼るものがなく、イエス様の前に立っている、イエス様のみ言葉を聴こうとしている、イエス様に従おうとし
ている、神の国はそのような人々のものだと言われたのです。

 21節には「飢えている」「泣いている」という言葉が出てきますが、「飢えている」というのは、単にお腹がすいて
いるということだけではなく、そのことも含めて、何か満たされないものを抱えているということです。「泣いている」と
いうのは、22節以下に書かれている迫害による苦しみと考えられます。恐らくイエス様は、神の言葉に飢え、
全てを捨ててイエス様に従って来た者たちに対して、イエス様と共にいることによって、既に神の国は実現してい
ると言われているのでしょう。

 ですから、イエス様はこう続けるのです。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、
汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」

 つまり、イエス様を信じる者は、「その日」が来ると、つまり終末の時が来ると、最終的には幸いな者と呼ばれ
るにふさわしい者になると、という確実な約束があるのです。その約束は信仰によってしか見ることはできません。

 聖書の中にも、実際にイエス様と出会っていながら、イエス様の前を去って行った人が何人か出てきます。例
えば「金持ちの議員」と呼ばれるひとのように(ルカ18:18~23)。イエス様と共にある平安よりも、現実的にす
ぐに役立ちそうなものを選んだ人々と言ってよろしいかもしれません。

 弟子たちと言えども、イエス様に出会って、全てを変えられ、そのままそのまま、しっかりした信仰を守り通した
人ばかりではありません。いろいろな揺れ動きがあり、試練がありました。イエス様は、そのような弟子たちに向か
って、この言葉を語られたのです。

 イエス様は、こう続けます。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けてい
る。」(24)前半の「祝福の宣言」に対して、「災いの宣言」と呼ばれているところです。イエス様に従おうとす
る人は誰でも、この祝福を災いの間を揺れ動きます。イエス様と共にある幸い、祝福がすべて、と思う時もあれ
ば、いや、そんなものは当てにならない、現実的に力がなければどうにもならない、と思ってしまう「こともあります。

 イエス様は、こういわれます。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるように
なる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(25)

 生活の中で満腹している、満ち足りている。本来それは喜ぶべき状況の筈なのですが、しかし、それによって、
変わらない恵みであるイエス様の恵みをみつけにくくなる、そのようなことがあるのです。

 私たちの現実というのは、どんなに満ち足りているようであっても、必ずどこかに空洞があります。この、誰が見
ても豊かな社会で自殺する人の数が多いというのは、その証拠ではないでしょうか。そして、その空洞を埋める
のは、イエス様の恵み以外にはありません。貧しくとも、イエス様のそばにいる人は幸い。このイエス様の言葉は
決して気休めではありません。イエス様は、人間の心の底にある罪を見据えながら、本当に私たちの心を満た
してくれるものを、私たちの前に差し出して、私たちを招いていらっしゃるのです。このイエス様の招きに応えてい
きましょう。

<祈り>父なる神様、あなたは、あなたのところにこそ、本当の幸いがあることを、御子イエスによって私たちに
示してくださいました。一時的に私たちの飢えと渇きを満たしてくれるように見える虚しいものに私たちは囲まれ
ておりますが、どうかあなたが与えてくださる変わることのない幸いをしっかりと受け止めて歩んでいくことができます
ように。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
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