2022年  2月 20日  顕現後第7主日

      
聖書 :  創世記             45章 3節~11節、15節
            詩編               37編1節~11節、39節~40節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  15章 35節~38節、42節~50節
            ルカによる福音書       6章 27節~38節

      
説教 : 『 人を決めつけない、そして・・・ 』
                                木下海龍牧師
           
      教会讃美歌 :  170、 175、 382、 391

・・・そして、人にしてもらいたいと思う事を、人にもしなさい。」
 ある人物が関わって、予想外の落胆と苦痛を体験すると、その人に対するマイナスの評価は決定的になりま
す。その事から解き放たれるには長い時間がかかります。・・・・・

 今では、私自身、稀にその人に会うと目で会釈はしますが、もはや一緒に仕事をすることはないと決めて近
づかないようにしております。天の父上は、こんな私をまだまだ未熟者だと思って、心を痛めておられることでしょう。

 こうした心境の私が、本日この聖書の個所を読み、今日の説教に臨んでいるのであります。
 聖書から私への助言や戒め、また励ましはなへんにあるのでしょうか。
 説教題に用いました聖書個所は37節の「人を罪人だと決めるな。」から頂いたものです。以前の口語訳
聖書では「人を罪に定めるな。」と訳されています。

 ルカ福音書では、イエスは山から下りて、弟子と民衆を見ながら語った言葉であります。
 祈るために、山に登り、神に祈って夜を明かされました。その直後に、弟子たちの中から、十二人を選んで使
徒と名付けた、とあります。大雑把に言えば、大きな輪としての群衆がおり、その内側に、民衆が居て、さらに
その内側に弟子集団が居り、またさらにその弟子集団の中から十二人を選んで「使徒」と名付けた・・・・。そん
な見取り図が描かれるのではないでしょうか。

 今の教会に合わせて考えれば、群衆は街の人々であり、その街の人々の中から、神様と教会に関心を抱い
て教会の礼拝や聖書勉強に来られている人を求道者、その民衆の中から洗礼を受けた人々を教会員、その
教会員の中から、牧師や役員が選ばれて、教会運営と福音宣教に携わっている・・・と。
 ですから、イエスが弟子と民衆を見て言われた状況は、今で言えば、説教の聞き手は教会員と求道者であ
る今の教会状況に似ていると見てもいいでしょう。

 イエスから教えを受けたり、病気を癒されたり、心の病いから解放された人がおびただしくいたのです。そのす
べての人が弟子になったわけではありません。イエスの教えを聞き、癒されるのは、弟子になるための条件では
ありませんでした。弟子になることは、こちらの各自の自発的な気づきと決断に寄るものであったからです。もち
ろんその背後に神様の憐みによる導きがあったのだと、その事後に気づくものです。そのことは620節から4
9節に至る教え、戒め、生き方を選ぶ諭しの言葉を丁寧に読み進めますと分かります。弟子集団への招きは
安易な勧誘とは別次元の内容であるからであります。
 説教題に沿って、聖書の言葉を考えてみましょう。

 自分自身を神様の眼差しを通して観察してごらんなさい。いかに自分の好みや利得から人を判断している
ことが多い事でしょうか。

 イエスはおしゃいます。「自分の利得や自我意識から人を判断するのではなくて『あなた方の父が憐れみ深い
ように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。』」と。

 人を見る視点を自分からだけではなくて、双方のまたは複数の視点をもって見なさい。そのうえで理解し、そ
の人を本当に助けるとはどういうことなのか、を考える訓練をしなさい、と。

 山から下りて平地で教えられたイエスのお言葉であります。一緒に山に登って、祈りと瞑想の中で気づきがあ
ったのではないか、ただ目に見える一次的世界からの理解ではなく、神に聴き従う信仰の霊性から見えてくる
実像を判断しなさい。それが実践行為へとつながるのであります。
 この平地でイエスが弟子と民衆に目を上げて語りかけたのです。そこにはモーセの律法の宣布とは違ったニュ
ーアンスがあったと思います。「人を裁くな。」ではなく「人を罪人だと決めるな。裁くものではありませんよ。」と言
った、感じのニューアンスであったのだと思います。 その意味では、リビングバイブル訳には、柔らかみがあります。
「天の父と同じように、憐れみ深い者になりなさい。人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはなりません。自
分もそうされないためです。人には広い心で接しなさい。そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。」3637
 「人を罪人だと決めるな」は弟子と民衆(教会員と求道者)に向かって語っております。「聞いているあなた
方が、自分の側の基準だけで相手を判断をしたり、決めつけるものではありません。」人の判断には、文字面と
意識による事が多いのですが、その他に、直観的・感覚的に判断する人もいるものです。

 私が紙に書いてここに見せている「白」、という文字を見て、「黒だ」と反応する方もいらっしゃいます。ですから
その人は何を基準にして、決めているのか、理解を広げることが重要です。

 私自身がその年齢に近づいていますが、認知症の方の行動はその人なりの感覚や判断基準があってのこと
が少なくありません。その方が、どんな判断基準をもって行動しているのか、それを理解し、共有しながら、その
人を尊重したうえで、必要な介護ができるのではないでしょうか。
 今日の説教の出だしのところで、「もはやその人とは一緒に仕事をすることがないだろう」と私は決めつけており
ました。当時の自分の計画が突如寸断されたのですから、当座はその被害から立ち直るためには、大変な苦
労が強いられました。しかしながら年月の経過があって、振り返りますと、あの時は自分の計画と人生設計が
崩されて、うろたえ悩んだのは確かでした。思い出すと今でも身震いがします。

 しかしながら、自分が立てた人生設計やしたいことを断念して、素早く行動せざるを得ませんでした。
 すぐさまに東京へと転居しました。住居を見つける時間もなく、三人の娘が借りて住んでいた一軒家に我々
夫婦が転げ込むようにして移りました。

 書籍や資料の三分の一は廃棄し、急な断捨離をしても残った荷物の大半は賃貸コンテナへ運び入れ、身
の回りのモノを携えて、娘たちが住んでいたところに移ったのでした。明確な翌日からの将来計画があったわけ
ではありません。

 我々が転居した同じ3月に、長男が予定を早めてドイツから三鷹市内の教会に赴任して参り、そこには、
保育園児と小学生の兄妹の三人の子供が居ましたので時たまに会いに行くことになりました。さらにその年の
7月には、長女夫婦に待っていた幼児が生まれました。ところが9月下旬の出産予定が7月の初めに、低
体重児の双子が生まれたのです。私は、ひそかにお葬式の準備をして、嬰児が死んで落胆する娘をどう慰め
たものだろうか、と思案しながら、その病院に向かった日のことが思い出されます。

 私は追い出されるようにして、その職場と土地を離れて、娘たちが住んでいた借家に移ったのです。移ってみ
たら、私たち夫婦の手助けが必要とした双子の孫娘が待っていてくれた事態に当面いたしました。彼女たちに
とっては生死の瀬戸際の一年近い間の闘病というか、生育するための苦闘の連続でした。

 私の家族、直系眷属にとっては、私たち夫婦が東京に移転したことで、早産で大変だった夫婦と孫娘が無
事に育つための支援が出来たのではないかと受け止めて、有り難い事でありました。このことは、ほかの仕事と
か、自分がやりたかった事などには替えられない、かけがえのない命を支える大事であった、と受け止めておりま
す。追い出されるようにして、恨みと悔しさでもって、その土地を離れたのだけれど、大きな神様の計画は別に
計られていたのだと信じざるを得ません。その方が自分で起こした騒動によって、直接には関係のない私共を
東京へと追いたてるという彼の画策を用いてでも、神様はこの幼い二つの命が助かって、生きてゆけるように導
いてくださったのだ、と受け取れるようになりました。それは私にとってはとても有難い事であったと今になって受け
止めています。

 このことは、私の個人的な経験を通して、今日の聖書の個所から私自身が頂きました神様の憐れみに、気
づいた事の一部でも、皆様と分かち合えとなれば、とてもうれしいです。

 ここで、さらに普遍的で、長い時間の視座に立って、み言葉を見ておきましょう。
 「人は心に自分の道を考える。しかし、その道を導く者は主である。」口語訳箴言16:9
 「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」箴言19:21
 絶対者であられる神様を信じて生きる者にとっては、生きている時間内で評価することに囚われずに、もっと
広く長いスパーンで見ておくというか、神への信頼を自分一代だけでは終わらずに、少なくとも三世代の単位で
とらえて生きることが大切ではないかと受け取っております。

 私自身が死んだ後に、生きる世代への贈与と果実を考えて生きることの大切さを痛感しています。
 自分のつたない人生体験からでも振り返って言える気がしております。
 主よ、わたしどもを、憐れんでください。アーメン。

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