今年、24歳の孫息子は、私が諏訪教会に赴任していた時期に生まれ、私がその孫を諏訪教会で幼児洗
礼を授けました。当時、私どもの子供四人の教会籍は、私が赴任する度毎に持ち歩いて、赴任先に移して
おりました。そのこともあって、長男が大学生だった期間はまだ諏訪教会に教会籍があったのです。それですの
で、教会籍のある教会牧師から神学校への推薦状が必要でしたので、私が書きました。彼はルーテルの神学
校に入学する直前の三月に結婚しました。その時期の息子とのやり取りで一つだけ覚えているのは「(哲学
科の大学院修士課程を終えた年齢の息子に)結婚することは認めるけれど、これから4年間の神学校の学
業が始まって、全く定収入の目当てがない自分の息子に、お宅のお嬢さんを下さいとは相手の親御さんに言え
ないよう。」と言った一言です。それでもその二人は結婚式を挙げて、新たな生活を始めました。相手のお嬢さ
んは、またまた、たくましくて、息子が神学校にいる間に、本人は「立教の大学院に入り、夜は日本聖書神学
校で正規学生」となり、二人は、学徒生活と結婚生活を同時に始めたのでした。
なぜこんな個人的な話をしているかと言うと、この時に諏訪教会で行われた、孫の洗礼名は「ペテロ」と私が
名付けました。本日の聖書個所のペテロという名前と同じであるので、今日の導入にしました。
ペテロ本人には、もともとシモンという名前があったのですが、シモンの信仰告白を聞いたイエスが名付けたの
です。「わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。」とペテロ(岩)という
名前をいただきました。(ヨハネ1:42「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と
呼ぶことにする」と言われた。)
そこから歴史に残る偉大な名前の持ち主になったのですが、その生涯たるや大変であり、彼の人間的な弱さ
を時には曝け出して、波乱万丈の生涯でありましたが、最後までイエスの弟子を貫いて、殉教いたしました。イ
エスが言われたとおりに、キリスト教会の基礎となりました。
ペテロの人物像を知るために、福音書に残されている彼の言葉を見てみましょう。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。5:5
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深
い者なのです」と言った。5:8 ※1
ペテロが答えた「神からのメシアです」9:20
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一
つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」9:33
「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」12:41
「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」22:33
「わたしはあの人を知らない」22:57
「いや、そうではない」「あなたの言うことは分からない」22:60
そして、外に出て、激しく泣いた。22:62
しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚
きながら家に帰った。24:12
<ヨハネ福音から>
「はい、主よ、あたしがあなたを愛していることは、あなたがごぞんじです」21:15,16
「主よ、主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」21:17
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」21:21
ペテロ自身が発した短い言葉から推し量るならば、ペロは最後までヨハネの子シモンとして生きざるを得なかっ
た。本人の意図はどうであれ、彼が生まれ付の性癖は変わらなかった、と見ています。
ただし、ペテロは最後までイエスの弟子として、生きてゆこうとしたのです。イエスがペテロに期待した弟子とし
ての生き方を、即ち、イエスが自分に向けて語った言葉や、イエスの自分に向けた眼差しから期待される弟子
のキャラを作って、そのキャラを演じ通そうとしたのです。そうした中で、時々、とっさの拍子に素のシモンが出てき
たのも事実でしょう。
ペテロはイエスが望んだ弟子像を目指します。幾度かの失敗や、もともと持っていたところの性癖が出てしまっ
たりしながら、ペテロ自身が描いたイエスの弟子像を描いて生きて行ったのです。
各教会教派の中で使われている「聖化・成聖・神化」はもともとの自分の性質が次第に浄められてゆくという
よりも、自分の内に、新しいキャラを作って、それらしく生きてゆくことではないかと思います。イエスに出会った最
初から、イエスの弟子像が自分の中に出来上がるわけではありませんから、イエスの教えや諭しを受けながら、
次第にそのキャラが出来上がり、それを目指して、日夜生きてゆく中で、その弟子像が次第に自分の中に形
成されてゆくのだと思います。
弟子に召された中で、期待されているキャラを演じてゆく。それを続けるためには、勉強し続け、弟子を生き
続ける中で、弟子像のキャラに近づいてゆく状態になってゆくのです。
ペテロが晩年に書いたとされる「ペテロの手紙」からでも、ペテロがイエスの十字架と復活を証言し続ける宣教
の前線で、学びを深め、信仰的修養が深まってゆき、イエスを「わが師」として、自らを磨き上げていった経緯が、
わかる気がいたします。
それにしても、十字架と復活に遭遇して、生来の性癖から否定的な発言と行動をしてしまった為に、一度
は弟子集団からの離脱の危機に直面したのです。そうした危うさに陥りながらも、とどまり得たのは、※1これを
見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なの
です」と言った。体験であったと思います。そこで抱いた罪深さの直観は、これまでの具体的な己の罪を指すと
いうよりも、イエスの神々しさ、イエスの神的聖性を体験したから、「イエスの足元にひれ伏した」のです。時には
ペテロの弱さが露呈したとしても、「すべてを捨ててイエスに従った」5:11 その姿勢は生涯に渡って変わらなか
ったのです。「主よ、主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておら
れます」21:17 このペテロの言葉はペテロの弟子性を如実に語っていると思います。
ここで一つの挿話をします。昨年の秋に、早稲田YMCA主催の「仕事の話をしよう」シリーズをZoomで聴
講したのですが、何回目かの話の中で「今でも自分には10人くらいの師にあたる人がいて、年に一回はお会
いして、お話を伺ったりしている。」との講演者の言葉がありました。 実は、彼の話の最初のところで、わたしは、
この人のとてつもなく忙しい仕事の話を聞いていて、「この人にはスーパーバイザーが居るのだろうか?! 後で、
質問しよう」と思っていたら、話の終わりで、この話をなさったので、やはりね!! と納得しました。
生徒や学生時代を終えた後にも、自分の師がいることは大事です。
幾つになっても「わが師」と言える人がいらっしゃれば、意識的に会うようになさるのは、その人を豊かにすると
思います。自分が歳を重ねますと目立って少なくなってゆきます。それでも、年齢を超えて、「わが師」は持てる
ものです。特に、分野を超えると、気軽に見つけやすくなります。
お茶の稽古、座禅の稽古、楽器の稽古、パソコン教室、体操教室など・・・・。 思いがけないところで「わが
師」に出会える楽しさがあります。今年は、気軽に「わが師」に出会うのはどうでしょうか。
主よ、わたしどもを憐れんでください。わが師として私を、お導き下さい。アーメン