2022年  3月 13日  四旬節第2主日

      
聖書 :  創世記             15章 1節~12節、17節~18節
            詩編               27編
            フィリピの信徒への手紙    3章 17節~4章 1節
            ルカによる福音書       13章 31節~35節

      
説教 : 『 弟子-愛され、愛する人 』
                       信徒のための説教手引きより 竹田孝一牧師
           
      教団讃美歌 :  257、 338、 502、 208
 
  21世紀に入ったわけですが、私たちの教会も21世紀にふさわしく新しい共同体を求めて歩んでいます。 
今日のみ言葉に 「新しい掟を与える。」 と主は言われて、新しい主の群れのありかたについて語っています。 
では、主は弟子たちにどのような新しい主の群れのありかたについて教えているのでしょうか。

  34節をお読みします。 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがた
を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

  ジークフリート・シュルツは、ヨハネ福音書の注解の中で、次のように言っています。
  「しかし別れている間でも、人の子との関係は、途絶えない。」 ー 未来は 『新しい』 戒めの下に置かれ
るのである。 共同体生活、信仰者の共同体を律するのは、律法ではなくて、兄弟愛という新しい戒めである。」
新しい共同体はどこまでも兄弟愛、互いに愛するということによって律していく群れであることです。 それは、世
紀を越えて教会という共同体が求めていくことだと思います。

  さて、34節をよく読んでみますと少々、くどさを感じます。 つまり、このように書いて充分ではないでしょうか。  「あなたがたに新しい掟を与える。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
なぜ、わざわざ、「・・・与える」 と 「わたしが・・・」 との間に 「互いに愛し合いなさい。」 という言葉があるのでしょう
か。 私はひとつのことに気付きました。 それは、互いに愛し合うということが、人の力ではとてもできることではな
いということの強調ではないでしょうか。 わざわざ、ここで互いに愛し合いなさいというとき、わたしたちがどうしても
愛し合えない自分があることに深いため息の溝があるということです。 ひとを愛するゆえに深い傷があり、愛しえ
ない自分を見ざるをえません。 「互いに愛し合いなさい。」 という律法の前に私は深い罪の自分を思います。 
自分の内にある見たくない自分を見せつけられたということを皆さんは経験がありませんか。

  わざわざ、ここに 「互いに愛し合いなさい。」 という言葉を置いたのは、私たちが博愛というところで人と人とが
愛し合うというのではなく、愛することのできない自分の暗い世界があることを認めさせることにあったように思えま
す。 しかし、自分の罪の暗い世界にあることを認めることは、私たちが愛し合えない存在となることではありませ
ん。 ジャン・バニエは、自分が愛しえない人物と出会う中で次のように語っています。

  「私たちは、ある人には優しく接するのに、ある人には脅威を感じることがあります。 想いもかけない、嫌悪
な仲になる人と出会うこともあります。 しかし、実はそのような人は私自身の内に隠されている苦悩や憎しみ、
恐れや怒りを、白日のもとに引っ張り出し、暴露したにすぎないのです。 私にとって、ルシアはそのような存在で
した。 自分の中にあるみたくなかったものを私に見せつけたのです。 しかし、それを発見し、自分が何者である
かを知ることができたのは、実に貴重な体験でした。 このことで私は、自分がいかに貧しいかを発見し、その中
に暗黒の世界があることを知りました。 そして自分の中の闇や破れを認める時、光が差し込んでくることも味わ
いました。」

  ここで、自分の中の闇や破れを認めるとき、光が差し込んでくるとは、聖書の次の言葉へと続いていくのでは
ないでしょうか。 「わたしがあなたがたを愛したように」 という言葉です。 まさに、光なる主が私たち、その者を
愛されてこられると光が差し込んでくるのです。 バニエは、私たち自身の破れの中にイエスの愛があるといいま。
そして、共同体の中でこの愛を実感し、神から兄弟から愛されていることがわかるにつれて、私たちが互いに
愛し合うとは何かを、真に知ることになるというのです。

  自分の存在をイエスさまご自身が喜ばれているという実感、自分が愛されているということがはっきりとわかる
時、私たちは愛される者にふさわしくあろうとします。 そして何かができるようになります。「あなたがたも互いに愛
し合いなさい。」 という言葉が律法としてではなく、良きおとずれの福音として受け止めることができるようになるの
です。 このとき、新しい共同体は律法としての兄弟愛でなく、喜びの賜物として兄弟愛によって作り上げられて
いく、命の復活の喜びをもてるのです。 これが新しいということです。

  イエスさまが 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 と言われていること
が私たちの教会に出来事として生まれてくるのです。

  ここに教会の世における力となるのです。
  私たちは、教会ということを世に知らせることの手段をヨハネが生きた時代の数千倍、数万倍、いやもっと多く
の方法を教会は持っています。 コンピューターの発達、それは、時間、空間を越えています。 しかし、どんなに
手段を持っていても教会が、世に証ししていくのは、教会という共同体が、主に愛されているものとして、兄弟姉
妹が自分の心に闇を持ちながら、闇に差し出される神の愛の光に照らし出されて、喜んで兄弟が互いに愛して
いるという姿において存在していくことではないでしょうか。

  35節、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
という、福音の宣教が実現していくのです。

  私たちが目指す教会は、律法という兄弟愛によって作り上げていくものでなく、罪有る、どうしようもない私そ
のものを愛されているイエスの愛を実感し、愛されるにふさわしくなろうということ、何かができるという希望を失わな
い、積極的な生き方をしようとすることによって作り上げていくことです。 そして、世に向けて何かが出来る群れ
であるということです。

  21世紀も、主に愛され、愛された喜びの中で、全身をもって愛を実現する信仰の共同体である教会をとも
に作り上げ、皆が知るような教会となりましょう。

  お祈りいたします。
 愛の神よ、あなたのみ子、主イエス・キリストに愛されていることを喜び、感謝します。
 愛されている喜びを、愛をもってかえしていくことができるように私たちを強めてください。
 あなたの愛するみ子、主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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