2022年  3月 20日  四旬節第3主日

      
聖書 :  イザヤ書            55章 1節~9節
            詩編               63編 2節~9節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  10章 1節~13章
            ルカによる福音書       13章 1節~9節

      
説教 : 『 所有は皆の善のために・・・ 』
                                木下海龍牧師
           
      教会讃美歌 :  71、 290、 414、 158

  宇宙と地球の生成からすれば、我々は悠久の時間の中の<ひと時>を生きていると言えましょう。
  仮に今現在、自分の所有だと言える何かがあるとして、土地、家、いくらかの金銭的なもの。更に、そのほ
かに知的財産があるとして。

  百年前には、その土地は誰の所有であったのか。地球の年代からすると百年前とは、瞬きの一瞬に過ぎな
い。所有の概念や私有財産の権利保護などが文書で明記されたのは、ここ数百年の事であります。

  その間に地球と時代の変遷・体制の変革があって所有して生きるシステムが変わって行きました。
  今は、地球は一体誰の所有なのか。ということが議論され始めています。
  時には争い、和睦しながら、時代的に納得のできる道筋として、今の形態にたどり着いているのでしょう。
国家レベルにおいて、また個人においても百年単位ぐらいで、地球変動や戦によって変遷しきております。ウク
ライナの高層マンションが武力によって破壊されています。そこの住民は元に戻れるでしょうか。戻れない場合に
は、その後は誰の所有になるのでしょうか。

  百年後には、多分まだ地球が存在して、日本国土に人が住めるとして、おそらく、自分の手を離れて、誰
かが其処を住みかとして生きていることでしょう。今後、地球の形態が今とあまり変わらないとして、人類は増
々、年齢や世代によって住み替えることは普通に行われることでしょう。

  と、いうことは、仮に、今、なにがしかの自分の所有だと言える土地建物があるとしても、それは、今の自分
が生きてゆけるための<ひと時>のためにあるのだと判断しても良いでしょう。そしてそれは、自分だけの便宜
性のためだけではなくて、時を同じくして生きている同胞や隣人、人類全般のために、私の所有が有効に用い
られているか。自分の生き方を自らに問われていることではないでしょうか。

  自分の子や孫は自分の思い通りにゆきません。親の養育義務はありますが、それは育つまでの事であって、
その後は執着を離れて、双方が調整しながら上手に生きる「隣人」であると捉えて生き、大きな流れに身を任
せて、今、まさにすべきだと、自分が判断した道を歩いてゆく、そのような捉え方が妥当だと私は思っています。
育った子や孫は就職先に定住し、結婚して、親元に戻ることはほとんどありません。

余談、上田五千石の句が意識に上がってまいります。「青嵐渡るや加島五千石」 「秋の雲立志伝みな家を捨つ」
  イエスの言葉から、今を生きる我々が、自分の思考の中の一部に、自分になにがしかの所有と言えるもの
が、あるとして、それでもって助かる可能性の他者に向かって開かれているか、と問いただしています。

  「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
  我々、イエスの生き方に従って歩むキリスト者は、天の父の憐れみを頂いて生きていると信じて生きていま
すので、おのずから、自分に問うことになるでしょう。

  今日の聖書はイエスが、当たり前だと思っている人の意識改革の必要を我々に諭しております。
  13:25に述べられている要点は「災難にあった、不幸な出来事はすべてその人の罪の結果であり、
ピラトに殺されたガリラヤ人も過去に何らかの罪を犯したから、こんな災難にあったのだ、と受け止めている人々
は、その災害に巻き込まれなかった自分たちは罪人ではないと受け止めていたのです。不幸な出来事が噂に
なるとき、知らず知らずに災難にあった人を断罪して、自分は汚れのない者であるかのように思い込んでしまっ
ている人々の考え方や生き方をイエスは批判しておられるのです。

  イエスからすれば、罪とは、不幸な出来事があってはじめて姿を現すような影の薄いものではなく、どの人間
の裡にも根強くはびこる現実であるのです。

  名チェリストのパブロ・カザルスが語っております。「人には善にたいする無限の可能性があるように、悪の無
限の可能性もある。私はずっと長いこと、自分じしんのなかには、強い善の可能性と隣り合わせに、最悪の犯
罪を犯すたぐいの強大な悪の可能性があると気づいていた。私たちはだれしも、自分のなかに両方の可能性
をもっている」と。「鳥の歌」p146

  聖書が人の罪について言及する時には、人間が生きてゆく上で抱え、内在している実存的罪と実存的罪
悪感に視座を置きながら、その人に向かって救いの網をうつのです。ペテロがうつ網は、その人を救い出すため
に聴衆に向かってうつ網でありました。(
この辺の言及は、別の機会にもう一度話しましょう)
  13:6イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見
つからなかった。

  
13:7
そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたため
しがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

  
13:8
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやっ
てみます。 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

  主人は、三年間、待って、実がならない事を確認した上で、「切り倒せ、土地を実のならないいちじくの木
にふさがせるな!」と命じたのです。

  園丁の取り成しは「もしそれでもだめならば、世話を続けてきた私には切り倒せません。ご主人様、あなた
様が直接に切り倒してくださいませ。」と応えたのでした。

  長い年月にわたって、イチジクの木の世話をしてきた園丁にとっては、イチジクの木と自分との間には人格
的な絆が出来上がっていたのです。生命存在のあり方は違っておりますが、双方の生命自体の交流は両者に
生じて来るものです。実際に樹木を育ててみると感じるのではないでしょうか。

  世話をしても期待した実が結ばないことには失望するのは無理もありません。だがそうであっても、心を込め
て育てている間柄には、人格の交流が生成されているのですから、実を結ぶ、結ばないに関わらず、そこには、
人生において最も尊い命の交流、かけがえのない愛おしさが生まれているのです。それはわが身と一体になって
いる愛おしさであります。これ以上の尊さはないと園丁は受け止めているのです。
  ここに、登場している園丁は、遣わされたメシヤ・イエス御自身です。

  世話をやかせる私どもではありますが、追い求めて、最後まで見放さないイエス様は、羊である私どものため
に命を捨てる程に、愛しさを注いでやまないお方なのです。

  「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛(イツクシミ)により、その憐憫(アワレミ)の尽ざるに因る」
  エレミヤ哀歌文語訳3:22
  主よ、わたしどもを憐れんでください。その人個人ではどうにもならない、戦火に苦しんでいるウクライナの人
々の上に一日でも早く平穏な日々が訪れますように。 アーメン。
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