2022年 3月 27日 四旬節第4主日
聖書 : ヨシュア記 5章 9節~12節
詩編 32編
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章 16節~21章
ルカによる福音書 15章 1節~3節、11節b~32節
説教 : 『 待っている父 』
信徒のための説教手引きより 戸田裕牧師
教団讃美歌 : 312、 370、 461、 514
なにを思ったのでしょうか。ある日、突然、息子が父親に財産のうち自分の取り分を貰いたいと言い出しま
した。何の説明もありませんでした。しかし、そう言いだした裏に何があるのかくらい父親が知らないはずはありま
せん。これまで育ててきた自分の子どものことです。息子の考えていることなどは、彼の性格や日頃の生活態度
をみればすぐ察しはつきます。まだ財産の生前分与というものが一般的にはおこなわれていなかった時代ですが、
「潮時」と思ったのでしょう、この息子に財産の取り分を渡すことにしました。息子はこれを資金に他国へ行って
一旗揚げると胸を張りますが、父親は「そんな青二才の夢物語など捨てて、もっと地道な考えを持て」というよ
うなお説教じみたことは一言も言わず、また断念するように説得もしませんでした。このような場合、説得して
すぐそれに応じるとは考えにくいことです。こうと思い詰めた人間を、誰がどう説得しても成功の確率は低いでし
ょう。父親は、目の前にいる息子の心が、とっくに自分から遠いところに行ってしまったのを感じていました。「潮
時」と思ったのはそのせいです。この際、息子に「ひとり旅」をさせてみよう、そう決心したのです。ひとり旅は「おと
なになる旅」です。自分を見いだす旅です。そのような旅をわが子にさせる潮時だと思ったのです。息子の旅立
ちが息子にとって「発見の旅」となること、それが父親の願いだったのでしょう。しかし、息子はこの旅立ちをその
ようには受け取っていませんでした。彼にとってこの旅は、人生を何かに賭けてみるとか、自分を見つめ直すとか、
自立の道を模索するといった覚悟の要る旅立ちではなかったのです。ただ父親から自由になるための旅でした。
父親から遠く離れれば離れるほど独立できるという幻想に囚われ、彼はできる限り「遠い国」を目指したのでし
た。しかし、誰ひとり知るもののいない遠い国では、ひとりっきりの生活はできません。商売をするにもコネが必要
です。彼は人間関係の構築を思いつきました。狙いは外れてはいませんでした。投資のつもりで惜し気もなく
金銭をばらまいた彼の周囲に人が集まりましたが、手持ちの資本には限りがありました。
「(人は)お前が落ちぶれると背を向け、お前から身を隠す」(シラ書6:11)とあるように、彼に群がった人間
は、まもなく、姿を消してしまいました。彼の回りに集まった人々と人間関係を構築するどころか「たかられた」の
だと知ったとき、彼は有り金をすべて使い果たして破産したことに気付いたのです。無一文になった彼は、焦り
と不安をつのらせながら加速度的に転落してゆきました。そして、落ちるところまで落ちていった彼は、遂にイナ
ゴ豆で飢えをしのぐようになりました。豚の餌にまで手を付け始めて、彼は人間としての自尊心と誇りを失ったの
でした。
さて、詩篇の詩人は、「卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟をまなぶよう
になりました。」(詩海119:71)と告白しています。また不慮の災害で家畜や息子・娘を失ったばかりか、自
分もまた病に倒れるという壮絶な苦しみを体験したヨブも、「神は貧しいものをその苦しみを通して救いだし、苦
悩の中で耳を聞いてくださる」(ヨブ記36:15)と語っています。不思議なことに、ひとは苦難を体験して初めて、
自分の本来あるべき姿を取り戻すのです。イエスは譬えの中でこの息子に、それと同じ体験をさせています。人
間の尊厳を失い、自分の中に頼るべきものが何もないことに気づいたとき、「彼は我に返った」17節のです。ど
ん底に落ちた彼は、そこで自分の心を取り戻したばかりか、神に出会ったのです。「わずかの間、わたしはあな
たを捨てたが、深い憐みをもって、わたしはあなたを引き寄せる」(イザヤ書54:7)とおっしゃってくださる神様に
見いだされたのです。神様のお心の深さを、いったい誰が究めることができるでしょう。最初、弟息子の家出は
自己発見の旅とはほど遠いものでした。しかしながら、人の思いをはるかに超える神の御計らいによって我に返
り、逆説的な意味で自分を発見することになったのです。父の家を目指して折り返しの旅を始めた彼は、自己
発見の旅を完結しようとしていました。
忍耐を持って息子を待ち続けさせたものは、父の愛情でした。そして、その愛情は強烈な確信を生み出し
ていました。それは、「あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望があると主は言われる。息子たち
は自分の国に帰ってくる」(エレミヤ書31:16~17)。わが子は、かならず、帰ってくる。いや、帰ってこなければ
ならない。それは、いわば「生命回帰」ともいうべきもので、人は「命の根源」に繋がっているという生命観を父は
もっているのです。そればかりか、生命の源を発した生命は無駄な動きはしない。その回帰運動という大きな循
環の中で、身を結ばず、手ぶらで源に帰ることのないのです。生命の発祥の地を離れた生命の流れは大地を
巡って、すべての生きとし生けるものを潤し、一本の木、一本の草に至るまで生命を与え、育てあげて回帰す
るのです。このように生命の源に繋がっているものは、枯渇することなく生きていくのです。この譬えの中で、挫折
した下の息子が父の許に帰る姿は、生命の根源に帰る姿をあらわしています。したがって「主なる神」と「私」の
あるべき姿もまた、ここにはっきりと啓示されています。私たちは父に、それゆえに神に根源的に繋がっているの
です。
弟息子が帰ってきました。もう昔のような父子関係は望めないだろうと覚悟を決めて帰ってきました。その姿
を父は見ました。父と子の距離はアッという間に縮まり、体と体が激しくぶつかりあって堅い抱擁となり父の接吻
と変わりました。それで、なにもかも終わったのです。何も説明はいりません。息子の悔い改めがあって、父の赦
しと受け入れる懐の深さがありました。その懐の深さと愛とが和解をもたらしました。悔い改めた息子の受け入
れる懐があったがゆえの和解でした。この父の愛と赦し、受容がなければ、たとえ、kの息子の悔い改めがあっ
たとしても起こりえなかった和解だったのです。しかしこの和解は、新たに父と長男との間に不和をもたらしまし
た。兄は、父が弟を迎え入れたことに腹を立てました。父や家族の心配を振り切って無軌道な生活をした揚
げ句、無一文にになって泣きついて来た弟を、父のように兄は赦しませんでした。そればかりか、弟を赦す父に
対して怒りが爆発したのです。父に尽くした自分と弟を父は同じだというのか。自分の誠意と弟の不実に違い
がないというのか。勤勉に働いた自分と遊興に身を崩した弟の評価に差をつけないのはなぜか。父と弟に対す
る怒りと憎しみをあらわにします。兄は、自分の正義を盾に家族を糾弾する人間になり、「怒って家に入ろうと
はしませんでした。」父の愛を踏みにじって一旦は家を出た弟ではありましたが、赦されて家に戻りました。しか
し、兄は弟を赦さず、家に入りませんでした。兄もまた、かつての弟のように、父から遠い人間だったのです。兄
息子がその後どうなったかはわかりません。はっきりしていることは、父親はふたたび「待つ父」になったということで
す。自分は正しいと思う「確信犯」のような心を持った長男が、そのかたくなさから目覚めることは弟の場合以
上に困難でしょう。しかし、それは彼の問題です。私たちの関心はそこにありません。私たちが心に留めるべきも
のは「待つ父」の姿です。父がそのように待っていてくださらないなら、救いの道は永遠に閉ざされてしまうでしょ
う。「待っている父」、したがって、忍耐をもって待っておられる神様こそ、私たちの救いそのものなのです。
<祈り>父なる神様、私たちは何も見えないのに見えると錯覚しています。あなたから遠く離れたところに
いれば、それは光から離れたところにいるのと同じですから、ものがよく見えないのは当たり前です。なお「見える
」と、かたくなにそう思い込んでいます。自分の姿も、ましてや、あなたのお姿も見えていないのに、人生の先を
見透かそうとしている愚かなものです。なによりも、あなたを見上げて、そのお姿を仰ぐことができますように。あな
たから遠ざかっている、愚かな自分の姿を見せてください。そして、父なる神様、あなたから遠く離れている私に
「待っておられる父」の姿を、あなたのお姿をはっきりと、たえず、見させてください。主イエス様のみ名によって祈
ります。アーメン