2022年  4月 10日  主の受難(紫)

      
聖書 :  イザヤ書            50章 4節~9節a
            詩編               31編 10節~17節
            フィリピの信徒への手紙   2章 5節~11章
            ルカによる福音書       23章 32節~49節

      
説教 : 『 十字架のキリスト 』
                           光延博牧師 信徒代読
           
      教会讃美歌 :  81、 78、 77、 68

  イエス様の両側に2人の犯罪人が十字架につけられています。イエス様と離れることので
きない仕方で一つとされている事実が露わなっています。この「犯罪人」とは「ただ『悪事を
働いた者、悪いことをした人』というだけの表現で、特別『犯罪人』というような狭い意味で
はありません。悪さをした者ならもう皆ですよね。そういうごく広い意味を使っています。」
(榊原康夫氏)とありますように、私たちのことです。また「2人の犯罪人」とは、イエス様
によって、神様を拒否する私と同時に神様に立ち帰る私という2つの側面が示されていると思
います。そして、私たち人間は、自分だけは善人と思いたい者ですが、御前にある者として罪
びとです。ここで見るべきことは、私と私たちと連帯しておられるイエス様です。神様が私た
ち一人ひとりと一つであられることがイエス様を通して映し出されています。この事はイエス
様のご生涯を通して一貫されていた事です。

  神様を現わされる救い主のありようは、イザヤ書にある4つの「主の僕の歌」でも示され
ていました。42章(1-4節)では「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、
喜び迎える者を。」から始まり、神様の「裁き」すなわち「神様の完全な救い」を導き出し、
確かなものにすると明言されます。また「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷
ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことな」いお方です。49章(1-9節)で
は人間を「御もとに立ち帰らせ」、神様の「救いを地の果てまで、もたらす者とする」ために
「選ばれた」と言われます。50章(4-11節)では、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに
与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。」とあり、「主なる神はわた
しの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひ
げを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて
くださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたし
は知っている/わたしが辱められることはない、と。」というように、神様に従う僕に対す
る周囲からの嘲りのことと、神様の御守りに対する僕の信頼が歌われます。5213節から53
12節までの箇所では「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽
蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。」と言い、すべての人間、
一人ひとりと連帯し、罪と苦しみを「共に負う」方であることがはっきり書かれています。こ
れがユダヤ教の文書であり宗教指導者は知っていたであろうけれども、もう一方のメシア観で
ある「力強い、民族解放を成し遂げる」ほうに、自分の損得を重んじるゆえに流される人間、
その罪の普遍的性質が人類を支配する現実が、昔もあり今もなおあります。4つの歌に「選ば
れた」僕というテーマが流れています。

  私たち罪びとと連帯するために洗礼を受けられたイエス様に「あなたはわたしの愛する子
。わたしの心に適う者」と神様は語りかけられ、山上の変容の場面でも想起させられました。
イエス様は神様の選びによるご自身を自覚され、御心に堅く立ち、悪の誘惑を経験され、ゲッ
セマネでももだえつつも御心をご自身の内に確かめられました。ここで、嘲る議員の「選ばれ
た者なら」と言う言葉からでさえ根源の言葉を聞き取られます。イエス様は、自分の損得によ
って「自分の命を生き延びされる(自分を救う・助ける)」ことを目指してではなく、根源の
選び「神様に愛され、救いの中に生かされた」自分を、愛された他者と共に生き抜くという、
根源に立ち続けられました。

  周囲には「嘲り」しかないことをルカは強調します。存在否定の嘲りです。「民衆」とは
「受難週の間ずっとイエス様を慕って朝早くから御言葉を聞きに集まっていた」(榊原氏)け
れども、「十字架につけろ、十字架につけろ」と行動を一変した者たちのことです。損得で動
く私たちの姿がよく表れています。民衆の「見つめる」と「嘲り」が詩編228節にあるよう
に、2つは同一の態度であることを解説書は書いています。つまり、民衆も、宗教や政治の権
力者も、ヘロデの兵隊もローマ兵も、お弟子もイエス様を役立たずとして捨てたのです。しか
し、イエス様は捨てられていながら、すべての人間と連帯し、神様が共におられる事実に即し
て、全く同じく他者と共におられます。イエス様は、自分を、他者を、皆等しく救っておられ
る神様のもとに、神の国(支配)にいつでもおられたのです。それが周りには理解できません
。けれども、理解できなくても、すべての人間は、救いの神様の中に存在し生かされています
。これが、損得で動く「人間の知恵」ならぬ「神様の智慧」です。

  イエス様はそこに立脚されます。罪びとと一つとして「父よ、彼らをお赦しください。自
分が何をしているのか知らないのです。」と今もまた祈られています。私たちが祈らない先に
祈り、また私たちと共に祈り続けていてくださっています。

  イエス様の命と私たちの命を差別し、命の価値が違うとか重みが異なるとか考えて、イエ
ス様を持ち上げよう、イエス様にもたれかかろうという人間の知恵から聖書を読もうとする試
みがあります。私たちは殺人を絶対に正当化しません。人殺しは御心ではありません。まして
や神様が人間を赦すためにイエス様を殺したと解釈し、神様を殺人者呼ばわりして、自分の損
得で物事を判断し、清いお方を殺してしまう罪の性質を持つ私をあくまで正当化してこうとは
しません。神様の福音の光のもとで、罪の自己を真剣に悔い改めます。自分のためなら他者を
利用し、場合によっては殺すことをしてしまう性質を自覚します。そして、イエス様のように
、赦してくださる神様に向かって「赦してください」というのが人間であるはずです。赦され
ている自分同時に赦されなければならない自分を知り、私たちはイエス様と共に神様に祈りつ
つ生きてゆくことへと導かれています。

  イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」に続けて、「自分が何をしているのか知ら
ないのです。」と言われています。人間とは、他者を嘲り、殺人をしている。神様がこの上な
く愛されている自他をおとしめている。命の根源が忘れ去られている。神様のある一人ひとり
の命を差別している。このことを覚えたいと思います。

  パウロはこう言いました。「むしろ、わたしたちが語るのは、奥義としての隠された神の
智慧である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、時間に先立って、予め定めてお
かれたものである。この世の支配者たちのうちで、この智慧を知っていた者は、ひとりもいな
かった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、(そ
れは)、書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしな
かった〈こと〉、/神がご自分を愛する者たちのために備えられた〈こと〉」/(である)。
」(Ⅰコリ27-9 小川修訳)

  私たちは殺人を正当化しません。イエス様を殺してしまったのは私たちです。しかし、神
様の永遠の命・ロゴスを示されたイエス様は死ぬことなどありません。永遠に真理は存続して
います。私たちのありようを超えて、その真理・神の智慧に私たちは生かされている、と聖書
は語り続けます。そして、事実私たちを根底からお支えくださり、事実ここに生かしめていて
くださっている神様と共に私たちはあります。その命の根元で、イエス様と共に、私たちは、
自己正当化促進の呪縛から解放されることができるのです。
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