2022年  4月 17日  主の復活(白)

      
聖書 :  イザヤ書            65章 17節~25節
            詩編               118編 1節~2節、14節~24節
            使徒言行録           10章 34節~43章
            ヨハネによる福音書      20章 1節~18節

      
説教 : 『 あの方を引き取ります 』
                           木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  89、 150、 262、 456

  イースター!! おめでとうございます!!
  イエス様が復活なさった日を覚えて、世界中の教会は祝っております。
  「本当に!イエスの復活を信じていらっしゃいますか??!!」と尋ねられれば、「ハイ信じておりま
す!」と私は応えます!その場合に、私は何に根拠を置いてそれに答えているのでしょうか。勿論、そ
れは聖書に基づいているのです。聖書を信仰と生き方の規範にしているからです。聖書に加えて、イエ
スから直接に薫陶を受けた使徒たちもまた、自分たちが見て信じた内容を明記した「使徒信条」にも「
三日目に死人のうちから復活し」と表明しているからであります。さらに第1ニカイア公会議(ニケーア公
会議は、325520日から619日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイアで開かれた、キリスト教史における最初
の全教会規模の会議に於いて採択されたもので、公会議で採択された最初の信条)
に於いて採択されたキリスト教の
基本信条である「ニケヤ信条」にも「聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました」と記載されて
おります。
  すなわち、「聖書」と二つの基本信条である「使徒信条」「ニケヤ信条」に述べられているので
す。わたしは洗礼を受けるにおいて、これらの文言を受け入れて信じているのであって、私自身が瞑
想体験を深めて、そこでの神秘体験を通して、イエスの復活をありありと体験したことから、イエスが復
活した根拠にしているのではないのです。教会の歴史上では、その幻視的体験をする方もいたとは思
いますが、各信仰者がする体験の上に、イエス復活の根拠が置かれているのではありません。
  ですから、この三つの基本文書を信奉せず、それゆえにイエスの復活を信じていない人々もおられ
るのです。それもまたありうることだと認めるのです。そのことが「信教の自由」が謳われている重要
さでありまして、お互いに尊重して行くことなのであります。
  さて、マグダラのマリアは仰いました。「『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたの
か教えてください。わたしが、あの方を引き取ります
。』」今日の説教題はここの文言から頂きました。肉親、親族
以外の方が、ご遺体を引き取ることは順序なことではありません。ご遺族の依頼なしに、災害などで損
傷した遺体を納棺する前に修復してあげたくとも、ご遺族の依頼なしにはその遺体に触れて行う修復
作業は法律的にも許されていません。当時もおそらく、ご遺体を引き取って、葬りの葬儀を行うことは
生易しいことではなかったはずです。
  淡路阪神の地震災害においても、3.11の東日本大震災の折にもそうでしたが、身元不明の膨大
なご遺体をどのように扱うかは自治体にとっては大問題でありました。淡路阪神の場合は信教の自由
などのコンセンサスが膠着して、身元不明者のご遺体は長らく放置されて腐敗が進みました。この悲
劇をなくすべく、東日本大震災では、淡路阪神の教訓を生かして、自治体と地元宗教団体(キリスト教・
仏教・神道)が共同して、身元不明者のご遺体を丁寧に火葬にまでに至らせて、埋葬することを行いま
した。東北ヘルプの会の事務局長であった川上直哉牧師の働には大きなものがあり、今もその働きは
続けられています。
  時価300万円もする香油をイエスの葬りの準備になるとは露だにも知らずに、イエス様への熱い
思いに促されるままにイエスの御足をぬぐったマグダラのマリアでした。せめて亡骸だけでも丁寧に葬
りたいとするマグダラのマリアの心情には我々もまた共感するのではないでしょうか。
  説教の直前に歌いました讃美歌(105 たぐいなきみ恵みよ 主は生きていたもう)は、私どもがイ
エス様の復活を信じている構造のもう一つの側面を顕していると思います。
  さきほど述べたイエスの復活は三つの経典を根拠にしながら、今を生きているキリスト者自身が、
自らの内的直観の感性から沸き起こるイエス復活を実感領域の中で謳っているのであります。
  「われ見たり、み子イエスを緑の木陰に
  この世で普通に生きながら、讃美歌の作者は自分が計画して生きている現実の日々の中で、その
日常性をこえた「超越」に前触れなく、突然に気づくのです。或いは遭遇したとも言えましょう。この讃美
歌の作者は、「なんという空しさ、すべては空しい。」と旧約聖書コヘレトが叫んでいるこの空の下に生
きながら、一瞬であったにせよ、永遠の重みをもったイエス復活の顕現を目撃したのでありました。そ
の体験から「われ見たり、み子イエスを緑の木陰に」と賛美したのです。この告白は、「わたしは主を見
ました
」と告げたマグダラのマリアの信仰告白に繋がっています。
  三つの基本経典に根拠を置きながら、「わたしは」「主を見ました」とする告白するに至った、あるい
はそこに導かれた「わたし」に、生きたイエスの命が流れ込む出来事・事件が起こったのです。公的・
客観的な文章上に述べられている真理性は「わたし」を媒介にして「生きている真実の信仰」に成る
のです。「わたし」が関わることによって、はじめて古文書である経典が今まさに生きた「ことば」に成
った
のであります。
  それは今の時代に生きている自分にも、神の恩寵が向けられたことを謳っているのです。「われ見
たり」
のこの詞は自分の気づきを謳っております。「気づき」とは始めからそうであったのだけれども、
今初めて気づいた感動の詞なのであります。理性の守備範囲は一般的には年表的であり、また歴史
の記録として了解するものなのです。自分本人の主体的な認否の選択は問われておりません。ところ
が、人類に向かってなされた福音の言葉にたいして(「神はその独り子をお与えになったほどに、世
を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命得るためである
」)応答する時には、
すべての一人一人がそれに応答する時があるのです。その場合には具体的な一人の誰それが主体
的に認否の応答をすることになります。神のみ言葉が自分に投げかけられていると感じ取った者が、
直観の感性において感得した事柄を、内的作業を経て言葉に置き換えて告白することになるのであり
ます。
  例えば、受難の讃美歌80番に「十字架の主、わがため血を 流したもぅ。 主イエスの血は わが
罪の ゆるしのため
 流されぬ。」 ここで「わがため」「わが罪の赦しのため流されぬ」がその言
葉です。
81番3節「みわざを終えし 主のなきがら 心をこめて 抱きまつらん」この「抱きまつらん」
は「わがため」と受けとった人がイエスに従って生きる姿勢を言葉に表現したものです。
  これ等の讃美歌の作者は、聖書と基本信条で表明されていた事柄ではあっても、自分自身の気づ
きには到ってなかったのですが、それが今や、自分自身が気づいたのです。マグダラのマリアが「わた
しは主を見ました」と証言したその時以来、主イエスは復活されて生きておられたのだと今、気づいた
のです。
  真に「超越」である存在は常に脆弱の中に存在します。そのことは「無いと言えば無い」虚弱存在と
してあるのです。イエスを神の子として信じないからと言って、神はミサイルを打ち込んで直ちに懲らし
める事はなさらず、慈しんで待っておられるのです。※マルコ15:32
  他方では、その存在を信じ得た者にとっては永遠の真実なのです。たとえ自分が死に直面するとし
ても、恐れつつも死んでもいいと。「かぞうるにたらぬ身の 身にあまる幸に包まれて」
  “それでよいのだ” と穏やかに立ち続け得るのです。
  復活の主よ、憐れんでください。私どもを導き、「わたしは主を見ました」と告白する者にしてくださ
い。消えゆく燈芯を燃え立たせ、奮い立たせてください。主の御名によって祈ります。 アーメン。

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