2022年  4月 3日  四旬節第5主日

      
聖書 :  イザヤ書            43章 16節~21節
            詩編               126編
            フィリピの信徒への手紙   3章 4節b~14章
            ヨハネによる福音書      12章 1節~8節

      
説教 : 『 イエスの葬りに備える 』
                           木下海龍牧師
           
      教会讃美歌 :  71、 318、 306、 397

  最近の個人的な学びの中で、「二重の見」についての言説がございました。ある時期から私は(あ
の世とこの世を今、同時に生きている)と思うことが意識の底辺で感じておりました。最近になって西平
直氏の書物から「二重の見」という言葉を知って、聖書を読みますと(イエスは神の世界と人の世界を
二重に生きたもうた)と、私なりの「二重の見」の言語理解が得られました。すると説明する上での便宜
性を感じて使うことにしております。
西平 直著「東洋哲学序説―井筒俊彦と二重の見」ぷねうま舎 2021225日一刷
  私は牧師です。が、牧師の勤めを果たすためには、この身体を使て行わざるを得ません。
  たとえば、昨日と今日の役割を果たすべく、ここに来るために、昨日の昼前に、家から駅まで歩き、
電車と新幹線とタクシーを利用して富士教会に参りました。その間には昼、夜、朝の食事をいただきま
した。さらにその間に眠り、トイレにも行き、軽い体操をして、短い瞑想もして、今の自分の体調を確認
しながら、聖壇に立っています。
  これ等はみな、身体を使っております。今まさに、声を発生して、原稿に目を落としながら、皆さん
の様子も目に入れております。
  それらと同時に、聖書を基にしながら、目には見えておりませんが神様のメッセージを伝えておりま
す。聖書の言葉は目で追いながら読めますが、神様やイエス様のお姿は肉眼では見えておりません。
けれどもあたかも、眼前におられて私に向かって語るように促されて、集中しながら聞き取った内容を
語っているのです。しばしば、私の聞きとり方に制約があって不明瞭なことを言ってしまうこともありま
すが・・・・「此処の聖書個所は何を言おうとしているのかなあ?!」と自分に問いかけながら・・・。時に
はその場で補正しながら・・・。
  メタ宗教感性が明確になると言いますか、信仰的感性が深くなればと言いますか、信知の眼差しが
明らかになればと言いますか。一つの出来事や言葉を自ずと二重の視点でとらえて、今、ここで、生き
る現実を取捨選択しているのではないでしょうか。
<フィリピ3:4-11の黙想>
  パウロはイエスを知る以前の自分の存在状況とイエスを知った今の自分を同時に見ております。
以前を全否定したように表現しながらも、それはキリストを知った今に比べれば、のこととして語ってお
ります。以前の自分を完全に抹殺すれば今の自分は存在しないことになってしまいます。
  フィリ 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他
の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見
なしています。キリストを得、 3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から
生じる自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があ
ります。
(斜体は聖書協会共同訳から置き換えて引用しましたが、説教時に、口頭で少し説明しましょう)
  3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやか
りながら、 3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
<ヨハネ福音12:1-8の黙想>
  イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取
って置いたのだから。  貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわ
けではない。」12:78

  「 この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ
貧しい者に手を大きく開きなさい。」申命記15:11

  マグダラのマリアは、凡そ320グラムの香油をここで使ったのです。
  そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自
分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。12:3
  「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:5
  イスカリオテのユダが言った言葉にも理由が通ります。労働者の一年分の給与に相当する額の香
油でしたから。
  マグダラのマリアはただただイエス様への感謝と愛と喜びを表さざるを得なかったのでありました。
一方、金銭的な立場からすれば、愚かで無駄使いの行為とも見えたのです。
  しかしながらイエスはおっしゃいました「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の
ために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつ
も一緒にいるわけではない。」12:8
  ヨハネ福音書のこの段階では誰もがイエスの十字架の処刑については全く気付くすべはありませ
んでした。ただイエスだけは、マグダラのマリアの精いっぱいの行為をそのままに受け入れておられた
のです。しかもそれは、自分の葬りの備えとしてすべき必然的な準備の行為として見通されておられま
した。イエス様は、マグダラのマリアのひたむきな心根の行為と近い将来に自分に起こる苛烈な十字
架刑の死の道行とを二重に見ておられます。その上で、マグダラのマリアを皆の前で弁護したのです。
「施すべき貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしイエスは間もなくあなた方の前から取
り去られるのだから」
  理想的には、金品は無駄遣いせずに、しかるべき事と時にかなって使用すべきでしょう。ただし、愛
情と信仰の領域においては金銭的損得を超えるものであります。マグダラのマリアは自分が一番大事
にしていた香油、しかも当時の一年分の日当に相当する価値のナルドの香油で、イエスの葬りの準備
とは露にも知らずに、イエスのお体をぬぐったのであります。
  ことのそれが、真実に真心からの行為であるならば神様の高く深い摂理の中で運ばれたことであり、
神様はその行為を甘受し、高く評価されるのであります。
  主よ、憐れんでください。私共の捧げものは、ナルドの香油には及びませんが、浄めて受け入れて
ください。 アーメン。
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