2022年  5月 15日  復活後第5主日(白)

      
聖書 :  使徒言行録           11章 1節~18節
            詩編               148編
            ヨハネの黙示録          21章 1節~6章b
            ヨハネによる福音書      13章 31節~35節

      
説教 : 『 ペテロよ、我を愛するか 』
                        木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  524、 321、 324、 280

  今日の説教は、ヨハネ福音書211519節に基づいて説教をいたします。
  21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛してい
るか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イ
エスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
  二度目にイエスは言われた「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」 ペテロは応えました。「はい、主よ、わ
たしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。イエスは言われた「わたしの羊の世話をしなさい」と。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。ペテロはイエスが三度も、「わたしを
愛しているか」と言われたので、悲しくなった。

  ところで、ペテロが三度も「わたしを愛しているか」と言われて、悲しくなったのですが、イエスが大祭司カイア
ファから尋問を受けた中庭に於いて、門番の女中から「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」と
言われて、ペテロが「違う」と言った。「お前もあの男の弟子の一人ではないか」というと、ペテロは打ち消して、「
違う」と言った。さらに、ペテロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいる
のを、わたしに見られたではないか。」ペテロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。〈マタイ26:75 ペトロ
は、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして
外に出て、激しく泣いた。〉

  〈ルカ 22:6062 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうち
に、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度
わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。  そして外に出て、激しく泣いた。〉

  ペテロはイエスから三度も「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われたので悲しくなった。とても悲し
かったでありましょう。その上で、イエスの側から、この時のペテロ反応を見た時のイエスの気持ちを感じ取るとる
ことも重要ではないでしょうか。「あなたのためなら命をすてます。」と言ったペテロが、大祭司カイアファの館で三
度もイエスを「知らない!」と言い放ったペテロ!  イエスはどんな思いで振り向いてペテロを見たことでしょうか
!! ほかの福音書からも見ておきましょう。
  ルカ23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない
のです。」〕
  十字架上でのイエスの赦しの取り成しは、イエスを処刑する人々のためであり、さらに、人前で三度もイエス
を否んでしまったペテロ及び逃げて去った弟子たちも同じ様に執り成されていたのでした。
(ここで、私自身の恥ず
かしい証しをアドリブ的に挿入する)

  この場でのイエスは、イエスを裏切ったペテロを恥ずかしさと自分自身に絶望しているペテロ、穴があったら
逃げ込みたい心境だったでしょうし、できればこの場から消え去りさかったペテロを、辱めたり、全き恥の中に貶
める𠮟責ではなく、選ばれた最初の使命に向かってペテロを立ち上がらせたのです。終始一貫して
、十字架上での取り成しの延長線上におられたのです。ペテロは恥ずかしさと悲しさの中で、「先生を大切にい
たしております」「愛しております。」「あなたを心にかけております」とほかの弟子たちの前で、イエスはペテロが心
から、発言する告白をペテロの口から引き出されたのでした。

  「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」
  そして、皆の前で、羊というイスラエルの比喩を使いながら教会の世話役のトップに立たせたのでした。
  今でも、ローマのバチカンの地下にある石積みの壁には歴代の教皇の名前が刻まれていますが、そのトップ
にペテロの名前が刻まれております。
弱さや欠点のある人々を神様は選び出して用いておられるのです。「自分は、この職責には全くふさわしくない
のに、こんな職責を担っていいのだろうか。と立ち止まり、自己吟味しながら、新たに、イエスからの呼び出しを
確認して、立ち上がらせる意味があるのです。
  イエスは三度もペテロに向かって「わたしを愛しているか」と言ったのは、ペテロが三度もイエスを否んだことの
不名誉を弟子たちの面前で回復するためであったと言えましょう。しかしそれだけではなく、神と人との間の愛す
ることの神秘性について、ペテロが教会を牧会する中で熟慮するように促したのだと私は考えております。K
リーゼンフーバー先生の論文の一箪を引用しておきます。

<神を愛するとは・・・哲学者であり信仰者である二人の発言の断片的資料紹介>
K.リーゼンフーバー著「近代哲学の根本問題」Pp408 2014年7月10日第一刷り発行
第四部 純粋経験と宗教―――西田哲学をめぐって
第十四章「純粋経験」の宗教的側面  五 神への還帰としての宗教的行為における自己超越
西田幾多郎の論文について論究し、西田と対話しているような文章を引用しました。

   西田:「我々が神に祈り又は感謝するといふも、自己の存在のためにするのではない、おのが本分の家郷
  たる神に帰せんことを祈り又之に帰せしことを感謝するのである・・・・神に於いて真の自己を見出すなどとい
  ふ語はあるいは自己に重きを置く様に思われるかも知らぬが、これ反って真に自己をすて、神を崇ぶ所以で
  ある」p352

   リーゼンフーバー:「こうした自己超越は元来、対象的な通常の認識においてではなく、愛においてのみ実
  現さるのであり、しかもそのような愛は、一切の現実を根拠づける一なる根底が人格的性格を持つことによっ
  て可能となる。」

   西田:「愛とは人格的知識の対象である・・・・宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在
  の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。」p352

  リーゼンフーバー:「愛とは絶対者に関する最高の認識である。なぜなら、自己は愛においてこそ自らの主
  観性を乗り越え、自己とは区別されながらも自己を支えてくれる力を信じることによって、神の意志へと自発
  的に自らを委ねるからである。」p352

   西田:「主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すといふのは自力をすてて、他力
  の信心に入る謂である。・・・・(略)〈父よ、若しみこころにかなはば、この杯を我より離したまへ、されど我
  が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ〉とか・・・いふ語が宗教の極意である。而してこの
  絶対無限の仏若しくは神を知るのは只之を愛するに因りて能くするのである」p352

   リーゼンフーバー:「神の人格性は、忘我的な愛を自らに引き寄せるのであり、そうした神への愛においてこ
  そ、絶対的現実ないし神の最も純粋な経験が成立する。このようにして遂行される経験が宗教の核心を成
  すのであり、これによって宗教は単なる哲学の領域を凌駕することになる。」p353

   西田:「宗教には必ず此の如き内面的経験を要す。これなければ宗教は哲学と区別なく一つの知識たる
  にすぎず・・・。宗教の本質は・・・内面的経験、神秘的直覚にあるのである」p353

   リーゼンフーバー:「こうして現実に関する純粋経験そのものは、その中心と頂点において、人格的絶対者
  にかんする宗教的経験であることが示されるため、『善の研究』全体は、(略)人間の愛の根底としての神
  の人格性を、神への愛および、隣人愛というというかたちで強調しているのである。」p353

   西田:「実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。・・・我唯神を愛す又之
  を信ずといふ者は、最も能く神を知り居る者である。・・・(略)我々の愛の根本、喜びの根本である。神は
  無限の愛、無限の喜悦、平安である」p353
戻る