2022年  5月 22日  復活後第6主日(白)

      
聖書 :  使徒言行録           16章 9節~15節
            詩編               67編
            ヨハネの黙示録          21章 10節~22節、22章5節
            ヨハネによる福音書      14章 23節~29節

      
説教 : 『 聖霊による愛の冒険 』
              信徒のための説教手引きより 竹田孝一牧師 信徒代読

      教団讃美歌 :  420、 531、 467、 458

  今、私たちが生きている時代を聖霊の時代と言います。聖霊が私たちの内に働き、聖霊によって私たちは
生かされているのです。それは、主イエスが公生涯のとき、弟子たちに語り教えていた、ということが今日の聖書
の日課です。

  私たちは直接、弟子のようにイエスさまに会うことはできませんが、決して弟子が主に励まされて生きたことと
遜色なく、主の教えを聞き、励まされるという約束をイエスさまにいただいているのです。「父がわたしの名によっ
てお遣わしになる聖霊が、あなたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

  今、私たちは当たり前のように祈ります。 「主イエス・キリストの名によって。」 というように。この当たり前の
ように祈る祈りの結びは、私たちの人生の根拠を示すものだからです。今日の日課の結び、「ここから出かけよ
う。」 という、「ここ」 は、自分らの根拠を示すのです。それは、イエスさまの名によって、祈るとき、また生きるとき
、私たちの思いを越える神の力なる聖霊が働き、私たちがいかに生きるかを教え、イエスさまのみ言葉を豊かに
与えてくださるという約束からくる、「ここ」 です。

  よく、人生を生きるのに際して、特に、苦しみ悩んでいるときなど、どう生きるか分からずに、あるいは、なんと
信仰が役に立たないような思いをすることが、誰にもある経験ではないでしょうか。

  しかし、そうではないのです。 「すべてのこと」、「ことごとく」 とあるように、イエスさまは聖霊という神の力を通
して働いているのです。一生懸命に何かをしているとき気付かずにいても、ふと手を休めると自分に吹いている
風に気付き、心地よい気持ちを得るように、自分にかかわりなく聖霊は私たちの内に吹き、働いているのです。

  人生へ出かけていくことは、実に素直に神さまに 「イエスさまの名によって祈る。」 ことから始めることです。イ
エスさまのみ名によって祈り、生きていくという単純さこそ、私たちに求められている信仰です。ここにすべてが、こ
とごとく、神の恵みのうちにあるということが示されるのです。

  かつて、「星のこどもたち」 の集会が開かれました。「星のこどもたち」 の集会とは、教会内における牧師によ
性暴力被害者の会の集会です。少ない人しか集まりませんでしたが、そのためか、日頃のそれぞれの悩みを
打ち明けずに閉まっていたのが、この時とばかり悩みを分かち合う場面になりました。ある方が、苦しんでいること
を話しました。家族のため、教会のため、一生懸命、生きれば、また愛そうとすればするほど、苦しみの中にお
られる姿が拝見でき、その方の苦しみの深さを思わされました。竹田先生はそのとき、ジャン・バニエの言葉を
思い出したそうです。 「愛するところにはいつも痛みと危険性がとも
なっています。 人が誰かえを愛し始めたと
き、その相手から無視されたり、その愛はたちまち苦痛をもたらすものになるからです。」

  そんなに一生懸命にならなくてもいいのにと、思いました。そして、今、思うと、一生懸命生きたのにもかか
わらず悩みの深さ、苦しみが増すのは、一生懸命のあまり、イエスさまの名によって祈り、聖霊の風を与えられ
ていることを感じられなくなる、人の業のなす罪ではないかと思ったと言うのです。

  私たちは一生懸命生きていくことを美徳に思います。 しかし、「信仰上、一生懸命に生きる。」と言うこと
と、私たちのいう、「一生懸命に生きる。」ということとは違うように思えるのです。「わたしは、平和をあなたがた
に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 というイエスさまのお
言葉は、そのことを示していると思うのです。

  私たちのいう一生懸命に生きる、そして、その結果、私たちが満足するような結果を得る事ができる、という
方程式があります。 しかし、信仰に一生懸命に生きるとは、私たちが満足するような結果にはならないという
のです。「心を騒がせるな。 おびえるな。」 というとき、イエスが与える平和は、人の心を騒がせる、また、おび
やかせるというものであるということではないでしょうか。つまり、私たちの生きることをいつも根底から問い直してい
くような、出来事が起きてくるというのです。その揺り動かされる中で、イエスさまの名によって、祈るとき、聖霊と
いう神の力によって、あなたがたにすべてのことが教えられ、主のみ言葉が話されていくというのです。私たちが一
生懸命というとき、それは、自分の満足な平和を得ることではなく、自分の生きる根っこを常に確かめ、主の名
で祈り、聖霊の働きを受け、主のみ言葉に励まされて、自分の人生の営みに押し出されていくことではないでし
ょうか。
  この一生懸命は、美しくてよいことかもしれない、しかし、そこには、自分の思うような結果がでないとき、ま
たは、心騒がされ、おびやかされ、私たちは自分に絶望し、うなだれるのではないでしょうか。しかし、私たちがこ
こから立ち上がらなければならないと思うのです。 それは、自分の内には決して、立ち上がる力を生み出せな
いのです。

  「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」
  私たちは、自分の力で神を愛すること、自分を愛することなら、決して力は湧き上がらない。自分の力で自
分を愛すること神を愛する事をふと止めて、自分に吹いていた聖霊の風を味わうことが大切です。ここからこそ、
私たちが自分の生き方の中で、立って堂々と生きる力が与えられるのです。

  「聞け、イスラエルよ。 我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。」 という言葉こそ、イスラエルの民族を導き生かしたように、まことに私たちがこの
言葉に自分の人生を導かれ、聖霊の働きに助けられつつ、神を愛することから始めたいものです。

  竹田先生は、その方の悩みを聞いていて、自分の人生を丁寧に愛され、一生懸命であるのは、よく分かり
ましたが、しかし、あまりにも自分の力で神を愛するあまり、信仰的に神を愛することへの営みがいつのまにか消
えていっているように思えてならなかったようです。ですから、「世が与えるように与えるのではない。」 という主の
真の平安を得ることができないで、袋小路に陥り、闇にあるように思えてなりませんでした。

  「シェマー・聞け」 から始まるこの主の言葉は、同時に聖霊の吹くこの時代にも起こるのです。「すなわち、
父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊がすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせ
てくださる。」

  主に聞くこと、さらに、「わたしが父を愛した。」 ということの信仰者の歩みこそ、「さあ、立て。」 という主の促
しに力強く、一歩を踏み出すことができるのです。

  聖霊を感じる旅が、信仰者の人生の旅です。バニエは、一生懸命に愛することに躓きながらも、私たちに
愛の冒険をしなさいと語ります。「大切なことは、経済的援助ではなく、手を差し延べることなのです。 『あなた
と友だちになりたい。』 と語りかけ、触れ合いを持とうと手を差し出すことなのです。 誰かを愛するとは、その人
のために何かをしてあげることではなく、その人の価値を明らかにすることです。」、聖霊が、教えてくれ、話してく
れているとは、そういうことではないでしょうか。私たちは、「ここから」 、立って人生の愛の冒険に共に出掛けまし
ょう。

 お祈りいたします。神さま、聖霊を私たちにいつも与えてくださり感謝いたします。聖霊によって、いつも勇気を
もって人生を愛のうちに歩むことができるように私たちが立てられていることに気付かせてください。あなたのみ子
、主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン
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