2022年  6月 12日  三位一体主日(白)

      
聖書 :  箴言                8章 1節~4節、22節~31節
            詩編                8編
            ローマの信徒への手紙     5章 1節~5節
            ヨハネによる福音書      16章 12節~15節

      
説教 : 『 三位一体の神の働き 』
             信徒のための説教手引きより 齋藤幸二牧師 信徒代読

      教会讃美歌 :  131、 371、 132、 453

 今日は三位一体の神様を覚える日曜日です。三位一体という言葉は聖書にはありません。でも聖書を神
のみ言葉である、と信じているどの教会でもこの「三位一体」を信じています。というのは、聖書をそのまま読ん
でいくと、聖書の伝えている神様は父と子と聖霊の三つの神様が一つになっておられう、ということがわかるから
です。

 どうして三つの違った神様が唯一の神様と言えるのか、ということは難しい問題です。神様は「もの」ではありま
せんから、私たち人間が数学や物理の法則を神様にあてはめるわけにはいきません。ただ、神様について聖書
が教えていることをそのまま受け入れるべきだと思います。

 私たちが毎週唱えている使徒信条も、実はこの三位一体の神様への信仰を言い表しているのです。全能の
父なる神様を信じます。その独り子、イエス・キリストを信じます、また、聖霊を信じます、という三つの部分から
なりたっています。

 齋藤先生が教会に通い始めたとき、そして聖書を学び始めたとき、一番疑問に思っていたのは、「どうして聖
書は神様の事だけを教えるのではなく、イエス・キリストのことを教えるのだろう」ということでした。

 でも少しずつ学んでいくうちに、神様に出会うためにはイエス様抜きではだめなんだ、ということがわかりました
。というのは、私たち人間は「神様」という言葉を使いながら、自分の都合の良い神様を考え出すからです。神
様の名によって自分の気に入らない人を殺したり、復讐したり、苦しめたりする人々がいます。神様を目に見る
ことはできませんから、一見すると神様を信じているような言葉を使いながら、神様のお考えとは全然違うことを
教えたり行ったりすることができるのです。

 しかし神様はイエス様によってご自分のお考えがはっきりわかるようにしてくださいました。神様はイエス様を私
たちに示されて、「これは私の愛する子。これに聞け」と語られたのです。

 イエス様の十字架と復活は、神様の愛が人間の罪という壁を乗り越えて、人間の方に近づいてこられる、と
いうことを表しています。私たちの努力ではなく、十字架の死から復活されたイエス様によって、私たちは神様に
出会うことが出来ます。イエス様を通らないでは神様に出会うことはできないのです。

 イエス様はヨハネ福音書14章で、こう言われています。「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私
によらなければ父のもとにゆくことはできない」。そしてイエス様は「神を信じ、また私を信じなさい」、と言われて
います。私たちはこの方が主であり、この方以外に救いはない、ということをはっきりとさせ、また確信をもって伝
えていくべきです。

 では、聖霊とはどういうお方でしょうか。ここでイエス様は、その方が来るとき、つまり聖霊が来るときに、あなた
がたをあらゆる真理に導いてくださる、と言われています。あらゆる真理に導く、というのは私たちに何でも分かる
神様みたいな全知全能の力を与えられる、ということではありません。その意味は、私たちがクリスチャンとして
歩むために必要なすべての知識に導いてくださる、という意味です。

 この「導く」という言葉は「道」という言葉から出た言葉で、「ガイド」、とか、「道案内」という意味です。聖霊は
ガイドとしていつも一緒にいてくださる、ということです。そしてその聖霊が案内して下さる道とは、さきほど言いま
した「私は道であり真理であり、命である」と言われたそのイエス・キリストという道です。聖霊なる神様は、私た
ちの救いの道であり、真理の道であるイエス・キリストにいつも私たちを導いてくださる方なのです。

 先ほど、イエス・キリストが父なる神様に出会う唯一の道だ、と言いましたが、クリスチャンはこの道を見出した
、ということで終わるのではなく、この道を最後まで歩み続けるためにも、聖霊の助けを必要としています。

 私たちがクリスチャンとして歩むときにいろいろな困難があったり、迷いが生まれたり、また誘惑に出会ったりしま
す。そのような時、私たちはいつも私たちを導いてくださる聖霊のはたらきをいつも受けることが出来ます。

 私たちクリスチャンのもっている一つの危険は、いつも信仰というものを自分の経験や、自分の信念にすり替
えてしまうということです。私たちが信じているのは、自分の知性ではありません。自分の意志でもありません。
自分では正しい判断だと思っていても、いつの間にか曲がってしまうことがあるのです。

 ひとつ例を挙げますと、イスラエルの国がエジプトから解放されとき、彼らは神様の救いを見て、信じたのです。
でも彼らは飢えや渇きの問題に遭遇したとき、彼らは自分の小さな経験に照らして、もうこれ以上は耐えられ
ない、という結論を下してしまったのです。そして神様に向かってつぶやきました。

 心の中に神様なんて、という不信仰という間違った根が生えてきたのです。そして指導者であるモーセを責め
たのです。それは聖霊にさからったことだ、と聖書は表現しています。

 ですからどんなに今自分が考えていることが正しいことだと考えていても、自分の考えることがもっともなことだと
思っても、あのイスラエルの民のように心が神様に対してかたくなになっているかも知れません。日常生活のいろ
いろな出来事によって、私たちは不信仰に陥ったり、否定的な考えに取り付かれたりします。教会での人間関
係においても、社会での人間関係においても、「自分は義しい」、と思っていながら間違った思いに支配されて
しまうかも知れません。でも、それは聖霊の思いではありません。愛と平和によって支配されていなかったら、それ
は聖霊に従って歩んでいるのではありません。

 忘れてならないことは、私たちがそうした平安を持たないような自分の心を絶対化しない、ということです。自
分の心を絶対化するとは、言いかえれば自分の思いや信念を神にしています、ということです。そうではなくて、
私たちの思いをご存じで、私たちの思いと意思とを越えた力で私たちを導いてくれる、そして新しい心を与えてく
ださる聖霊に自分自身の思いをゆだねることができること、それが大きな恵みなのです。ですから、自分が悩む
とき、迷うときに祈るだけでは不十分です。むしろ自分が正しく考えており、正しく生きており、自分は大丈夫、
迷っていないと思うときほど聖霊の導きを求める祈りが必要なのです。
 私たちは自分の心ではなく、祈りに答えて新しい心と良い思いを下さる聖霊の働きを信じていきたいと思いま
す。また、聖霊はいつも私たちと共におられ最高のカウンセラーであり、アドバイザーなのです。そして、いつも正
しい道であるイエス様に導いてくださるのです。

 私たちの目標は神様で、そして生きる道はイエス様あり、そして助けて導いてくださる方は聖霊です。イエス・
キリストに目を向けましょう。そしてキリストに従って生きることができるように、聖霊の助けを日ごとに求めていき
ましょう。

<祈り>
 神様、私たちの救いのために、父、み子、御霊の神様がお働きくださっていることを覚えて感謝いたします。
私たちがこれからも父なる神様を愛し、イエス・キリストを信じて、また、聖霊の助けを求めて歩むように導いてく
ださい。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン
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