2022年  6月 19日  聖霊降臨後第2主日(緑)

      
聖書 :  イザヤ書             65章 1節~9節
            詩編                22編 20節~29節
            ガラテアの信徒への手紙   3章 23節~29節
            ルカによる福音書       8章 26節~39節

      
説教 : 『 御名があがめられますように。 』
                               木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  67、 187、 312、 228

 わたしには悪魔の存在が実体的に存在しているとは思えません。ただ人の健全な願いを超えて、全く予想外のわざわいが起こることがあることも認めざるを得ません。
 説明がつきかねる訳がわからない不幸なことが個人レベルや集団の中で起こることもあり得ます.
 こうしたことをどのように考えればよいのでしょうか。難しいところです。
 イエスも洗礼を受けて宣教活動に向かう直前に、悪魔の誘惑を受けたが、退けたと聖書は記します。
 釈迦も開悟した時に口をついて出た最初の言葉(開悟の偈)の一つに「悪魔の軍隊を粉砕している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」 玉城康四郎著「悟りと解脱」の中で「悪魔の軍隊、すなわち一切の煩悩を粉砕して」と注解しています。「悪魔の軍隊」を「一切の煩悩」と解釈しております。 創世記には「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」創世記1:31その後に続く創造物語の中では、人間は自由を求めて生きる道を選択するに至って、自由とともに苦悩をも背負うて歩む年月を生きるにいたります。
 今日の福音書を見てみましょう。
 ルカ 8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
 8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
 8:28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」ここで、この男にはナザレのイエスを「いと高き神の子」と認める能力が備わっていた、のだと分かります。レギオンとはローマの軍隊組織の区分で兵士の数は5000人前後であったと見られます。自分を抑圧せずに受容して一緒にいてくださるイエスの傍では服を着て正気になってイエスの足元に座っていた、とあります。これはこの男を取り巻く、無数の抑圧を追い出し・そのままの彼の存在を肯定して、無数の抑圧には取り合わなくてもいいのだと弁護したからです。
 ここでの「悪霊」も悪霊そのものとしての実体的な存在ではなくて、周囲の人々にとっては、自分たちの価値観やルールに無頓着で裸を恥ずかしがらない男の行動が語られているのだと思っております。
 ここで私の知見として少し述べてみます。
 私は「その人個人」とその個人が生きている人の集団の両面から考えます。
 「その人個人」は確かにある種の弱さを抱えている人であろうと思います。その「弱さ」とはその人が暮らしている集団社会の群れの人から見れば一般的に「弱い・気にしすぎる人」と見られる言動があることです。この「弱さ」はただ単純に弱くて脆い、だけではなくて、ほかの人には感じとれない、ある種の能力を現わしております。確かにある種の抑圧が存在するのです。その抑圧を人一倍に敏感に感じているのです。しかもその抑圧を上手に処理しきれないで内側に抱え込んで混乱しているのです。これは人間関係において、さらに環境的物理的な生活空間においても存在します。
 私はある時期には尖ったもろもろの前では坐っておれませんでした。(当日口頭で述べる)
 こうした私の部分的な知見からすれば、この汚れた霊に取りつかれた男はとても弱く、敏感にその社会の暗黙の抑圧を敏感に感じ取る人であったのではないかと判断されます。この場面に両親や家族が姿を見せていない事からも、その家族も村落の中で、小さくされて、息をひそめるようにして生きていたのではないでしょうか。それらのもろもろの抑圧、裸はよくないとする倫理観、あえて墓場を住みかとしていたことからも人々の抑圧、良かれと言った助言さえも暗黙の裡の指図であり、集団に従わせる抑圧としてこの男の身の上にのしかかっていたのではないでしょうか。
 随分以前に富士で体験したことを証しいたしましょう。私が牧師として立つ上で体験した、根源的な出来事の一つです。歳をとってきたせいか、最近殊に、この出来事と、この方とこの人のご両親の事がしきりに思い起こされて参ります。
 明確な記録を残しておりませんので、正確な年代については定かではありません。以前の牧師館が建ったばかりで、赴任したばかりの私はまだ結婚していなかった頃の事です。
 ある日、連絡もなく、わたしよりもはるかに年配で白髪の混じった夫妻が突然に訪ねて来られました。暑くも寒くもない季節でした。教会の庭で、立ち話的にお話を伺った記憶が残っております。まじめで誠実な感じのするお二人でした。話の内容は、沼津の病院に入院している娘さんが危篤状態であること。これからその病院に向かうところであること。その娘は以前から洗礼を受けたがっていたこと。この子が危篤状態になり余命幾ばくもない言われた今になって、せめてその子の願いを親として適えてあげたい事。その子は16歳頃からその精神病院に入院していることなどなど・・・。その子の妹や弟も今日はその病院に集っていることなど。出来れば牧師さんもこれから一緒に行っていただきたい事・・・。その話を伺いながら、私はその病人は自分と同じ歳の33歳だなあ・・と思ったことが記憶にあります。 夫妻の依頼の内容からして、緊急を要することだと判断され、私にはすぐの行動が求められている状況にあるのだと感じ受け取りました。すぐに身支度を始めました。
 誰が見ても説明なしに自分が牧師であるとすぐにわかるように、私は牧師のラウンドカラーを付けた衣服に着替えて、洗礼のための水を準備するガラスの器を用意しながら、逡巡しておりました。洗礼を授けるか、授けないは本人に会ってから決めることにしよう。と思っておりました。暴れる本人を抑え込んで迄、洗礼を授けるべきではない。と自分に言い聞かせておりました。
 沼津の駅からはタクシーでその病院に着きました。年配の看護婦さん、何か看守さんみたいに鍵の束を下げていました。案内されて廊下を進みながら、三か所ほどで、カギを使って開錠しながら、奥へと進んで、その個室の病室に至りました。
 すでに妹さんと弟さんが見えておられました。妹さんが語る甥ごさんの話を彼女は嬉しそうに聞いており、穏やかな口調で応答されておられました。その場は、とても穏やかで温かな雰囲気が漂っていました。暫く姉妹の会話を聞いておりましたが、折を見て、「讃美歌を歌いましょうか」と声を掛けました。すると彼女から賛同の合図があって、私は「いつくしみ深き 友なるイエスは」を歌いました。讃美歌を歌っている間、彼女は「讃美歌気持ちがいい。讃美歌気持ちがいい。・・・」と何度もおっしゃったので、「もうひとつ歌いましょう」と言って「山路こえて ひとりゆけど」を歌いました。鍵が外からかかるその獄舎のような病室は、静かで落ち着いた清らかな教会堂の気配に替わりました。
 すると彼女は突然にお祈りを始めました。定型の祈りでしたが、私には初めて聞く祈りの文言でした。
 その祈りが終わったところを見計らって、私は「主の祈りをしましょう。」と声をかけて祈り始めました。すると彼女も「主の祈り」を一緒に祈り始めました。私が初めに覚えた「主の祈り」の文言と同じ言葉の「主の祈り」でした。
 「天にまします我らの父よ。願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。・・・・」
 彼女の声が「願わくはみ名をあがめさせたまえ。」と言ったときには、大きな衝撃が私の頭蓋から足元へと走り抜けて、私の全身が落雷に撃たれたような感じに襲われました。そのためか、それに続く「主の祈り」の文言は記憶にありません。
 この数年後に、鈴木正久牧師の著書の中で「主の祈りは、わたしたちの日常生活の中で失われているものに向かっての祈りです。もしイエス・キリストが教えてくださらなかったら、わたしたちはけっしてこのような祈りはしなしでしょう。」の言葉に触れるのですが、この時はまだ鈴木正久先生の著書には出会っていなかったのですが、全く大きな衝撃でした!!
 死をまじかにした彼女が祈る祈りだろうか!16年間の私の青春を返してください!!と叫び祈っても誰も責めなかったでしょう。着飾って街を歩ける晴着を着せてよ!と言っても両親も弟妹も、私も同意したでしょう。彼女は私に「主の祈り」の深い意味を自らの生涯をかけて、教えてくださったのだと受け止めた瞬間でした。いや!彼女を通して主イエスが牧師になりたての新米の私に教え示されたのでした。
 主の祈り」が終わったところで、私は「イエス様のところに行きたいですか」と尋ねました。彼女は「行きたいです。」と素早く応えました。私は「あなたは洗礼を受けたいですか」 彼女は「ハイ、受けたいです。」と応答なさいました。その瞬間、彼女の洗礼を妨げる何があろう!!彼女に洗礼を授ける妨げは何も無いのだ。その確信が私を貫きました。
 私は持参したガラスの器を看護婦さんに手渡して、水をお願いしました。
 両親と弟・妹たちの見守る中で、「柴田敦子さん」に、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を授けました。
 私は、自分が牧師になったこと、牧師であることに心を震えさせながら、彼女に洗礼を授け、自分はこのことのために牧師になったのだ。と、この勤めの重みを噛みしめておりました。一切が空しく終ってゆくと思われるその人の状況の中で、明らかな希望に満たされて旅発つ姿を神様は私に見せてくださいました。その一週間後に伺ったところによりますと、毎日讃美歌を歌い、祈って過ごされ、一週間後に召されました。
 知らせを受けて、私は病院の霊安室で葬儀を執り行いました。柴田敦子姉妹は洗礼後一週間は持ち堪えたのだから、その間にもう一度一緒に「主の祈り」を祈り、聖餐式を共にすべきであったものを、私はそれをしなかったのだ!と 55年後の今になっても思い出すたびに悔いが突きあがって参ります。他人が単独で伺うのは不可能だとしても、私がご両親を促して、その精神病院に柴田敦子姉妹を訪ねるべきであったのだ!!
 その後、ご両親から、金額は記憶にないのですが何がしかの謝儀をいただきました。ぎりぎりの生活でしたのでこの金はうやむやの内に無くなることを案じて、聖餐式に用いる小ぶりのカップと皿を教文館で購入しました。今は棚に置いたままですが、55年経った今も、金色に輝いております。
 自分には、今もなお欠けた所が多々あり、自分のどこかになにがしかの執着心が残っていると認めつつも、精神病院で余命末期の方に洗礼を授けたこの原体験が牧師職の自覚を今でも持ち堪えていると言っていいでしょう。
 主よ、私共を憐れんでください。柴田敦子さんとご両親の霊魂があなたのもとで、ともに憩われますことをお祈り申し上げます。アーメン。

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