2022年 6月 26日 聖霊降臨後第3主日(緑)
聖書 : 列王記上 19章 15節~16節、19節~21節
詩編 16編
ガラテアの信徒への手紙 5章 1節、13節~25節
ルカによる福音書 9章 51節~62節
説教 : 『 イエスに従う 』
信徒のための説教手引きより 末竹十大牧師 信徒代読
教団讃美歌 : 166、 304、 494、 365
今日のみことばを読みながら、「ああ、私たちは人のことが気になるんだなあ」 と思いました。多くの人が一緒にやってくれると嬉しくなり
ます。しかし、「一緒にやろう」 と言っても、「いや、私はちょっと・・・」 とか、「また今度」 と言われると、うらめしく思います。断られて、恥ず
かしいという気持ちが起こってきます。 また、期待を裏切られたという気持ちも持ちます。 私の方が勝手に期待しているに過ぎないの
ですが・・・。
人は人、私は私なのですが、頭ではそう分かっているのですが、やっぱりくやしいんです。考えてみると、いつも一緒にやってくれている
仲間だと思っている人たちは、そんな時に、「断り難くて」 付き合ってくれているだけかもしれないのです。それなのに、自分は正しいことを
しているから、同意してくれていると思っているのではないでしょうか。
同じクリスチャン同志なんだから、分かりあえるんだという幻想を抱きます。その幻想が崩れるのは早いものです。 自分に同意してく
れないクリスチャンがいると、もう途端に腹立たしくなり、「クリスチャンなのにこんなことも分からないのか」 と怒り出してしまうのです。
クリスチャンになるということは、今までの生き方とは違う生き方に導かれることです。そして、今まで立っていたのとは違う土台に建てら
れることですが、それだからこそ、「分かりあえる」 という幻想を抱きやすいのです。土台は同じです。 しかし、「それぞれ違う素材で」 家
を建てるのです。パウロは 「コリントの信徒の手紙Ⅰ」 3章10節以降で言っています。わたしは、神からいただいた恵みによって、熟
練した建築家のように土台を据えました。 そして、他の人がその上に家を建てています。 ただ、おのおの、どのように建てるかに注意す
べきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれ
かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。
なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」
土台はすでに据えられているのです。 そして、その土台の上に一人一人が自分の家、つまり自分の人生を建てていくのです。
ところが私たちは、人と同じことをしようと、またわたしと同じ家を建てて欲しいと思うわけです。 そこに今日の弟子たちの姿があります。
自分たちを歓迎しない者は、「滅ぼされて良い」。 いや、「滅ぼしてしまえ」と思ってしまうのです。
今日の聖書で52節の言葉が心に引っ掛かりました。 「彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリヤ人の村に入った。」。
彼らは、「イエスさまのために」と思って出かけて行ったのです。 ところが、自分たちを歓迎してくれないと怒り出してしまうのです。
クリスチャンが神様のためにと思い、何かをする時も同じではないでしょうか。神様、イエスさまのために一生懸命になっているその時、
わたしたちはとても冷淡になってしまうのかもしれません。それは、わたしは 「良いことをしている」、「神様のために働いている」 という自負
があるからです。そんな 「良いことをしている」 私を歓迎しないとは何ということだ、と。わたしたちが、神様のために働いているんだから、わ
たしを歓迎しない人は神さまに反対しているんだと考えるとするとしたら、それこそわたしの方が神様に反対しているのです。私たちは神様
の据えられた土台の上で、皆生きているのですから。そして神様のみ心は 「私たちが正しい」 ということを主張することではなく、わたしが
その土台の上で生かされていることを感謝することだからです。自分だけが 「正しい」 とするなら、他の人を生かし用いている神様の正し
さを認めないということになるのです。
このような私たちは、神様から据えられた土台の上で、み国が来る時まで、途上にある命を生きるのです。途上にあるということは、「
いまだ完成していない」ということです。 ですから、私が自分を正しいとするなら、「途上にある」 生き方にはなっていないのです。人の子
には枕する所もない。」 とイエスさまがおっしゃるのは、この途上にある命の生き方を教えてくださっているのです。未完の命を生きるという
ことです。 完成に向かって歩むということです。それは、今という時を大切に生きるということであり、先のことを思い煩わないという生き方
です。死後のこと、自分がいなくなった後のことを心配するということは、神様がわたしを生かしているという土台を忘れているのです。また
、他者も、同じようにその土台に生かされているということを忘れているのです。
わたしの命も、わたしと同じことをしてくれないあの人の命も、わたしを歓迎してくれないあの人の命も、後ろ髪を引かれるあの人の命も
、イエス・キリストの十字架によってあがなわれ、変えられた土台の上に立っているのです。そうであれば、従うということは 「こうなれたら従
おう」 とか 「ここまで行けたら従おう」 ということではないのです。後半のみことばでは、いろいろと理由をつけて、「こうなったら、従います。
」 という人達が出てきます。これは従う姿ではないとイエス様はおっしゃいます。私たちは、自分が従えるようになったら従おうという風に考
える限り、いつまでも従うことはできないのです。従うということは、今の問題なのです。「いつかは」 従いますということは 「今は」 従わな
いということなのです。「今」 生きているのに、「いつかは」 生きますと言う人はいません。私たちが従うということは、生きていることと同じで
、今しかないということです。 そして、不完全な今で良いということです。 それは、わたしもあの人も途上にある。 つまり、不完全であ
るということを認めて従うということなのです。
完全になって従うのではなく、不完全だからこそ、従うのです。聖人になれたから、清い人になれたからクリスチャンなのではなく、清くな
いからクリスチャンとして生きるのです。そのためにこそ、イエスさまは十字架を通して私たち人間の道を備えてくださったのです。 土台は
すでに変えられ、据えられているのです。それぞれが自分の人生をその上に建てていくのです。 違った人生を、多様な人生を建てていく
のです。そして、その違ったものを一つにするのは、私たちではなく、キリストなのです。このことを信じて、自分の人生を建てていきましょう
。 一人一人の人生を結び合わせてくださるキリストに信頼して従っていきましょう。
お祈りいたします。造り主なる神よ。 あなたの創造の業を感謝します。あなたは、すべてのものを造られ、すべての人をキリストの十
字架で救い、一人一人の人生を大切に生かして下さいました。あなたのその御心を無にしてしまう愚かさを持った私たちですが、どうかあ
なたのみ声を聞いたこの時、あなたに従っていくことができますように、強めてください。キリストという土台の上にたてられているお互いであ
ることを認めて、あなたに従わせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
戻る