2022年 6月 5日 聖霊降臨(赤)
聖書 : 使徒言行録 2章 1節~21節
詩編 104編 24節~35節b
ローマの信徒への手紙 8章 14節~17節
ヨハネによる福音書 14章 8節~17節、25節~27節
説教 : 『 真理の霊を遣わす 』
木下海龍牧師
教会讃美歌 : 158、 294、 394、 337
真理の霊は人を使者に立て、使者を媒介にしてメッセージを伝えてくるのです。
書物を読むことである真理に至ることもあるでしょうが、印刷された文字だけでは、その道を生き抜くのは至
難の業です。その人の声音、熱情、真剣さ、人の息吹を通して、人は何かを感じ、共感し、納得して受け取
ってゆくのではないでしょうか。その真理性が、人の魂の内側に立ち上がってくるのだと思っております。
例えば、
アナニアをサウロのところに遣わした。使徒言行録9:10-20
さらに、コルネリウスをして、ペテロを呼びに行かせる。コルネリウスの家に集まっていた人々にペテロが説教し
ましたら、み言葉を聴いていた一同の上に聖霊が下った。異邦人が異言を話し、神を賛美した。使徒言行録
10:1-48
人間には必ずと言っていいほどに、選ばれた人が神からの使者に立てられています。私はいくつかの地方教
会に遣わされました。必ずしも、その教会の成長のために、いつもうまくいったわけではありません。けれども必ず
言えるがありました。それはこの人お一人に為に、この地につかわされたのだ!という喜びと確信が与えられたこ
とでした。その体験は、自分は使者の役割を果たしたのだ!と言う充実感でした。数の大小などでは計られな
い「助け主」の導きの世界だと言えましょう。
工藤直子の詩「あいたくて」のように、伝えることを使命として、特定の誰かに出会うことを必死で探し尋ね
ているようなものなのです。この詩との出会いは、主日の礼拝に備えて、焼津教会の牧師館に泊まって、なか
なか眠れなくて、深夜便・で詩の朗読を聴いた時に、直観的に私の内に鮮烈に入ってまいりました。朗読する
人の声の響きと一緒に、深く入ってきましたね。平原綾香さんが歌にしたものもあり、しばしば聞きました。紹介
してみます。
<あいたくて>
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきたー
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて
工藤直子詩集『あ・い・た・く・て』 より
人の背後にあって、伝えようとする人を選んで、神の存在と、神の臨在を聞き手に伝えるのです。
そのことをイエスは惜別の説教の中で、真理の霊を遣わすと弟子たちに約束されたのです。時には失敗し
たように見える中でも、相手に伝わるのです。(亀井勝一郎(1907-1966)の体験から一つを紹介)
私どもは、時には自覚しないままに、聖霊のお使い役をすることがございます。出会った人が洗礼を受ける
受けないに関わらず、一人の人の出現によって、何かが生じて、その方が「それでも生きてゆこう。生きて行って
もいいのだ。」と思わせるときなどがそうであると言えるでしょう。
神様はその人にも生きて行ってほしいと願っておられるのですから。
わたしは、鈴木正久牧師が56歳10ヶ月で1969年にお亡くなりになる前の数年間、日本ルーテ
ル神学校の学生でしたが、機会が許されれば、日本キリスト教団西片町教会の主日礼拝に出ました。説教
を拝聴してその教会堂を後にしながら、何か熱いものを胸にして、「今からしっかりと生きてゆくぞ!」と自分に
言い聞かせながら帰り道を歩いたことが鮮明に思いおこされます。説教の内容や趣旨は今では定かではありま
せんが、熱心に語る熱量が私を奮い立たせました。聖書の言葉に基づきながら語っておられましたが、鈴木正
久という人を媒介にして神様が私に向かって語られるみ言葉であったのだと今も思っております。
実は、私は、いわゆるクリスチャンなるつもりは全くなしいに、三ケ日教会の集会と礼拝に参加していました。
高慢で生意気にも、直接に話を聞いてから、批判しようと目論んでいました。そして時々、批判的な質問をし
ておりました。こんな自分でしたが、聖書の教えが自分自身への問いかけとして、また自分への勧めとして聞く
ようになっていったのは、ここで言うところのパラクレートス(弁護者、助けぬし、慰め主、真理の霊)の導きで
あったと言うほかはありません。それは、キリスト・イエスの霊の働きの結果であったのです。昇天なさったイエスが
遣わした「別の弁護者」の働きかけがあって、私たちを信仰告白へと導き、神様とのリアルな交流へと導いて下
さったのでした。と、受け取るほかはありません。
さる6月1日(水)に佐野三四子姉と二人で井上澄子姉を見舞うことが出来ました。井上澄子姉の長
女神田祐里さんのご案内でした。その時に感じたことの一つには、病が重篤になり声をかけても何の反応も示
さないと言われた人が、別のチャンネルには反応をするのだなあ!と気づきました。今回は、讃美歌を歌い詩
編朗読をし、主の祈りをしたときに、そのたびに反応されました。大きく口を開けたままであった方が口が閉じた
り開けたりして喉の奥から「あ・り・が・と・う!」と必死に声を出してくれたように受け止めて帰りました。神の領域
につながるチャンネルがあり、ルターはそれを受け皿とも言っておりますが、そのチャンネルのない人はたとえ肉体
は生きていても神様にたいしては死んでいると言えましょう。イエスは仰いました「死んでいる者たちに、自分の
死者を葬らせなさい。」とルカ9:60
聖霊はパラクレートス(弁護者、助けぬし、慰め主、真理の霊)であると説明されますが、本当にそれが
分かるのは神の領域につながるチャンネルが自分に賜ったのだと気づいた時ではないでしょうか。
そのチャンネルが自分にもあったのだと気づく時とは素直に「神を信じ、神を愛し、人を愛そうとする」自分に
驚きながら気が付くときであります。
さらに、自己保身の弱さゆえにイエスを否定した咎の瑕を身に着けているにもかかわらず、神様の小さな使
者の役割が与えられていると、気づくときに・・・人は自分が采配する領域を超えた神の領域からの通路として
のチャンネルがつながっていて、愛と喜びを直観的に受け取るのです。それが背後で導いておられる聖霊であり
弁護者なのでございます。
主よ。私共を憐れんでください。助け主の導きを受けて、主の道に従ってまいります。アーメン