2022年  7月 10日  聖霊降臨後第5主日(緑)

      
聖書 :  申命記              30章 9節~14節
            詩編                26編 1節~10節
            コロサイの信徒への手紙   1章 1節~14節
            ルカによる福音書        10章 25節~37節

      
説教 : 『 傷ついた癒し人 』
             信徒のための説教手引き 明比輝代彦牧師(信徒代読)

      教会讃美歌 :  223、 501、 361、 541

  明比先生は1975年に初めて海外旅行をしたようです。当時のアメリカ・ルーテル教会(LCAと言います)
が主催する「聖地研修会」に、日本福音ルーテル教会の代表として参加しました。6月から7月にかけての5
週間のセミナーで、参加者は4名でした。インド、エチオピア、アルゼンチン、日本から各1名で、指導者はアメ
リカ人神学者のブルース・シャイン博士でした。共通語は英語で、参加者には前もってs宿題が課せられており
、現地でそれを発表することになっていました。

  エルサレムとガリラヤ湖畔に滞在し、毎日、朝早く弁当のサンドイッチと水筒をリュックにつめ、聖書とカメラと
ノートをもって出かけます。リーダーのシャイン博士は、聖書の記述に則して実に的確な学びをさせてくれました
。前日の夜には、次の日に訪問し歩く場所の予習をします。当日は、その予習が生かされる形がとられ、実際
に目で見、自分の足で歩いて学びをより鮮明なものとしてくれました。明比先生は、神学校での1年分の授業
に相当する学びをしたような、充実感を得て帰国しました。

  この「聖地セミナー」で、ルカ伝10章の「善きサマリヤ人の譬え」を学んだことを忘れることはできません。
  その日、先生たち参加者4名は、シャイン博士の案内で、エルサレムからエリコへ下る道を歩いて行きまし
た。バスや車の通る舗装道路ではなく、イエス様の時代から残っている古い街道を歩いたのです。ローマ帝国
は、その支配権を帝国全土に及ぼすために、ローマ軍の戦車が通れる道を作りました。エルサレムの東側は、
深いケデロンの谷があり、その谷の東はオリーブ山になります。イエス様がしばしば訪問されたマルタ、マリヤ姉妹
の家は、オリーブ山沿いのべタニアにあります。ベタニアを過ぎ東に下る道は、ユダの荒れ野の中を行く道であり
、エリコに通じています。べタニアを出て2時間も歩くと、ごつごつした岩山のある道で、もう自分の身を隠す日
陰となる大木はまったくありません。照り付ける太陽の強い光を受けて、喉はからからに乾いてしまいます。こん
な場所で強盗に襲われたら、逃げる場所もなく、身を守ることが出来ず、大変なことになるだろうと思われまし
た。その通りで、当時のエリコへ向かう街道には、実際に強盗が出没したそうです。ルカ伝10章で、イエス様が
話された「善いサマリア人の譬え」に登場する追いはぎ(強盗)は、単なる譬えではありません。実際に起こって
いた事実を用いて、イエス様は語られたようです。

  エリコへの道の途中で、昼食を致しました。そのあたりには、譬えに出てくる「宿屋」があったろうと言われてお
り、その廃墟と言われる遺跡が残されていました。

  この譬え話の発端は、ある律法の専門家の質問でした。彼はイエスを試そうという悪意から質問しました。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」永遠の命を得るために、何かを実行すること
が求められている、と考えること自体、すでに間違っているのです。しかし、主イエス様は質問を本人に返して「
あなたは、どう律法を読んでいるか」と問われました。それに対して、専門家は正しく答えます。神と隣人を愛す
ることこそ、人に求められる最大の戒めなのです。

  問題は、正しい答えを知っていることではなく、その通りに生きることでした。イエス様は「それを実行すれば
、永遠の命が得られる」と仰せになりました。そこで、律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」と質問し
たのに対し、イエス様が話されたのが、この譬えでした。

  エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われ重傷を負った一人の旅人がいました。じりじりと照り付ける
太陽にさらされて、死の恐怖にも襲われた旅人は、ひたすらに助けを待ちました。そこへ通りかかったのが、三
人の人々でした。

  一人目も二人目も宗教的指導者でした。こんな時にどうすべきかは、他の誰よりもよく知っている人々であ
り、常日頃、それを教えている人々でした。問題は、知っていることではなく、教えているように生きているか、そ
の通り実行しているかどうか、だったのです。イエス様が、通りがかりの人物を祭司とレビ人という設定にされたの
は、明らかに対話の相手である「律法の専門家」を意識してのことでした。イエス様は、この人々に対しては実
に辛辣であり、皮肉たっぷりの話し方をされています。

  三人目の通行人は、サマリヤ人でした。この設定は、先の二人の宗教的指導者とは対照的であり、見事
な話の展開となります。

  自らを正統的な神の選民であると考えている当時のユダヤ人からみると、サマリヤ人は民族的にも宗教的
にも汚れている人々でした。ですから、サマリヤ人と交際することはおろか、その居住地を通ることさえしませんで
した。ところが、二人の宗教的指導者、正しく生きていると自称し、自らを誇りにしてきた人々が、しなかったこ
とを、この汚れたサマリヤ人がやってのけたのです。

  彼の行為は、さらに人間味豊かで愛にあふれていました。旅人を見つけると、傷の応急手当をし、乗ってき
たろばに乗せて宿屋に運びこみました。そのうえ、傷ついた旅人の世話を頼んでいきました。

  ユダヤ人が忌み嫌ったサマリア人の方が、律法に忠実であり、なすべきことをなしているます。どちらが「永遠
の命」を得るか、明らかなことです。しかし、ここで、イエス様は律法の専門家にこう質問いたします。「誰が、こ
の傷ついた旅人の隣人になったと思うか」律法の専門家の質問「わたしの隣人とは誰か」と、イエス様の質問「
誰が隣人になったか」とは、まったく違います。一方は、言葉の定義に時間を費やし、言葉遊びをしているかの
ようです。目の前の傷つき苦しんでいる人がいるのに、見て見ぬふりをしているかのようです。他方は、傷ついた
旅人を見て直ちに行動を起こします。誰が見ていようがいまいが、そんなことはおかまいありません。問題は、目
の前に苦しんで助けを求めている人がいる、ということなのです。

  その存在を忌み嫌い、付き合うことを避けてきたサマリア人という言葉を口にすることさえしないで、律法の
専門家は「その人を助けた人です」と答えます。しぶしぶながら、サマリア人を認めざる得ないが、サマリアという
言葉を口にしないのです。

  二人の宗教的指導者は、なぜ旅人の隣人にならなかったのでしょうか。それは誰も見ていなかったからです
。見ている人がいたら、彼らは旅人を助けたことでしょう。誰も見ていなくても、天の神様が見ておられると、普
段は教えていながら、ひとりきりの時には、つい本音で行動してしまうのです。にせの宗教家と、本物の宗教家
との違いです。

  エリコへの荒れ野の道を案内しながら、聖地セミナーの指導者シャイン博士は「傷つき倒れた旅人」こそが、
イエス様でないでしょうか、と含蓄のある問いかけをされました。十字架に傷つき倒れたイエス様こそが、真の救
い主であり、癒し主であります。

  祈り、神様、みことばを聞いて、知っているだけではなく、行う人とならせてください。他社の痛みと苦しみが
少しでも分かる人にならせてください。アーメン


                                                     
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