2022年 7月 17日 聖霊降臨後第6主日(緑)
聖書 : 創世記 18章 1節~10節a
詩編 15編
コロサイの信徒への手紙 1章 15節~28節
ルカによる福音書 10章 38節~42節
説教 : 『 イエスを家に迎え入れる 』
木下海龍牧師
教会讃美歌 : 170、 314、 382、 382
ヨハ9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯
したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業
がこの人に現れるためである。」
弟子たちを先に遣わすに際して、イエスは言った。どこかの家に入ったら『この家に平和があるように
』と言いなさい、と。神の国を宣べ伝えるとは、その家にある不幸なことがあったとしても、本人のせい
でも、その両親のせいでもないのだ。誰それのせいにすることではない。と明言されました。自分自身
の罪・罪責によるものではない。その明言はそこからくる呪縛からの解放の宣言でありました。
(不幸な出来事を消滅するための、供養という名の物品を買わねばならないと言った強迫観念から
の解放です。)
本日の聖書個所は、マルタとマリアの物語として良く知られている箇所です。
今日は少し視点を変えて見てみましょう。
イエスは遣わす弟子たちに言ったのです、「何処かの家に入ったら、まず、『この家に平和があるよう
に』と言いなさい。当然に、イエス様がお入りになる家には、平和の祝福の言葉と共に、大いなる平和
が訪れたと推察されます。イエス様の存在から、オーラーがあふれて家全体に神様の慈しみに包みこ
まれたような安らぎと心地よい緊張感に満たされたことでしょう。
具体的なこの家の状況を推察するならば、両親は他界してもはや居らっしゃらない。ひよわな弟ラザ
ロと少し問題行動があるように見受けられる妹のマリアの三人家族でありました。そうした中で姉のマ
ルタが中心になって家の切り盛りをしていたと見えます。マルタにしてみれば、両親が亡くなり、病気が
ちな弟と家事一般と近隣の皆さんとうまく適用できない妹を抱えて苦労しているのは、わたしたちの誰
かが、または両親が神様に何か罪を犯したからではないだだろうかと思ったこともあったでしょう。当時
の世間はそのように考える傾向が顕著だったからです。
そうした中で姉のマルタが両親代わりになって家の中を治めていたのです。とてもやりくりのできる聡
明なお姉さんだったとおもわれます。しかしながら、時には、姉であるマルタの良かれと思ってなされる
言動の中には、弟妹の気持ちを汲み取れなくて、自分なりの段取りの中で、妹や弟の気持ちよりも自
分の判断が先走っていることもしばしばあったのではないでしょうか。聖書のこの場面もその一つであ
ったと思われます。
イエスの一行を「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」 マルタが自らの判断でイエスの一行
を家に迎え入れたのです。この判断と人を見る感性は流石にマルタの力量だと思います。普段の生活
の中でもおそらく、こうしたマルタの判断が、両親のいない家庭を守り維持できたのでしょう。
ところがマルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたのです。ところが忙しさに忙
殺された中で見ると妹のマリアは姉を手伝うこともせず、イエスの足元に座って、その話を聞き入って
いたのでした。
皆さんでしたら、こうした場合には、どういう反応をされますか?
教会のバザーの準備の場合にも、ある人は汗を流してよく働き、それに比べてあの人は楽をして、見
栄えの良い係だけをしているのではないか!? こんな気持ちが行き交うかもしれませんね。
マルタはイエス様に訴えたのでした。「主よ、わたしたちの姉妹はわたしだけにもて成しをさせていま
すが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
マルタはとても賢い姉なんですが、ここに自分中心に、合理的に、客人であるイエス様にさえも、何だ
か指示している感じが出ておりますね。自分は全体の流れを見ながら、皆に最善のもてなしを考えて
立ち働いているとの自負と、マリアにも公平に家事の労働を分担させてください。マリアは気が回らず、
私が言っても聞かないのですから、先生からも、私を手伝うようにおっしゃってくださいませんか。
今日の多くの教会が少子高齢化状況の中で、教会内の仕事の分担をめぐって、これに似た、言葉が
生じてきております。働き盛りの人々が中心メンバーであった時代からの推移の中で、行動が思い通
りにはならない身体条件の方々が多くなって来られたからでしょう。それは同時に、働き盛りの層が希
薄であること、居たとしても家庭と仕事との両面で多忙であることなどが背景にあるのでしょう。
マルタも一人で真摯に客人をもて成すのに忙殺されています。それは立派なこととして評価されるべ
き働きでありあります。(イエズス会の働きとフランシスコ会の働きが連想させられます。)
ただし、マルタの意図や思いだけに焦点が向く傾向になります。弟妹は別の思いがあっても、無視さ
れて、普段からマルタの判断や意向に従うことが多かったのではないでしょうか。
マリアはマリアなりに、客人を迎えておいて、何のお相手もせず、ただ待たせておくのは良くないと考
えて、イエスの足元に座ってお話を拝聴する、というもて成しをしていたのかもしれませんね。
「何処かの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と言うイエスの意図は、
その家では目上の人に従いつつ、時に協力し、時には各自の判断や思いを尊重して、認め合って生
活を進める生きかたを、その家において、日々の営みの中で、積み重ねて行く生活を奨励され、その
ことの諭しと仲介の役割をイエスはここでなさっていると読めます。
イエスはマルタの食事のもてなしに大いに感謝して、評価しながら、マリアはマリアなりに考えて自分
に出来る良いと判断したことをしているのですよ。とイエスはマルタを諭されております。
イエスは家に向かえて入れられたこの機会に『この家に平和』をもたらしました。これまで二人の間に
横たわっていたわだかまりを双方が尊重する生き方へと替わって、マルタとマリアの間に和解と平和を
もたらしました。相互理解と互いにその選択を尊重しあって、一緒に生きてゆく大切さを示されたと読
めます。客観的にどちらがよりも優れて立派な生き方だと決めつけるのではなく、マルタもマリアもそれ
ぞれが、良いものを選んで生きているのだ、と認め合って生きることの大切さを教えられた、と受け取
れます。『マリアにとっては良い方を選んだのだ。それを取り上げてはならない。』と。
実は、我々は、マルタとマリアの両面をその割合や特徴の違いは在りつつも、その両面を皆が持っ
ているのではないでしょうか。
おそらくこの二人の姉妹と弟はその後の初代教会の中で、個性の違いを抱えながら、キリスト教会が
形成されてゆく過程の中で共同して働く多様性の良い証しをして行かれたのではないかと想像されま
す。
現在、富士教会においても、マルタのもて成しの一所懸命さ、マリアの人をあるがままに認めて、み
言葉に集中するあり方を維持しながら、次の世代へと教会を建て上げて、遺して行く細やかな気配りに
励みながら進むならば、必ずやしっかりとした実りを残すでしょう。
主よ、私どもを憐れんでください。私共の個々の働きが、主のご配慮の中で生かされ、成長しますよ
うにお導き下さい。 アーメン。
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