2022年  7月 24日  聖霊降臨後第7主日(緑)

      
聖書 :  創世記              18章 20節~32節a
            詩編                138編
            コロサイの信徒への手紙   2章 6節~15節
            ルカによる福音書        11章 1節~13節

      
説教 : 『 あつかましく祈る 』
                     小鹿・清水教会 秋久潤牧師

      教会讃美歌 :  190、 151、 371、 192

  「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て
必要なものは何でも与えるであろう」とイエス様は言います。この「しつように頼めば」と訳されている(ギリシア語
の)アナイデイアは「厚かましさ・恥知らず」という意味です。「慎み深い」という言葉に否定辞がついた言葉であ
り、「慎みがない」「恥知らずなしつこさ」という意味です。イエス様は祈りのことを「厚かましさ・慎みの無さ・恥知
らずなしつこさ」だと言います。私たちがイメージする祈りとはずいぶんかけ離れた話です。しかし、祈りとは本来
、厚かましいことです。

  「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても」と言われているように、祈る人、求める人
自身の持つ「友達」などの資格によって祈りが聞かれるのではない、とイエス様は言います。もし、何か資格があ
るから祈りが聞かれるということであれば、祈りが聞かれるためには資格が必要ということになってしまいます。しか
し、そのような資格によって祈りが聞かれるのであれば、救われがたい人間が救われません。救われがたい人間
が救われるのはおかしいと考える人は、祈りが聞かれるには資格が必要だと考えます。

  ところがイエス様は、そうではないのだと言います。もし資格によって神が祈りを聞くのであれば、それは資格
と、祈りの結果との交換になります。交換であれば、祈りの結果を受け取るために差し出す資格をまず獲得し
なければならなくなります。ですが、そもそも資格を獲得する力があるならば、祈る必要はありません。イエス様
が言う祈りとは、資格のない人が厚かましく祈ることです。イエス様がたとえで語っているのは、神に祈りを聞いて
いただくような資格のある人間は誰もいないということです。それでも祈るのが祈りです。自分が厚かましいと知っ
ている人が祈る人です。自分の祈りは聞かれて当然だと思っている人は、その自信の根拠となる資格があるゆ
えに、厚かましくは祈らないでしょう。厚かましくても祈らざるを得ない人が真実に祈ります。資格などないし、祈
りを聞いてくださる保証もない、それでも祈るのが祈りです。

  自分の祈りが厚かましいと思っている人は、資格などなくとも祈らざるを得ないところに立っています。社会は
、資格のない人間、底辺と呼ばれる立場にいる人間に対して、傲慢になるな、もっと謙虚になれと圧力をかけ
ます。しかし、追いつめられた立場の人がへりくだり、慎み深くしたからといって、圧力をかけていた人たちは手を
差し伸べるわけではなく、面倒だからと言って放っておかれることがあります。

  だからこそ追いつめられた人は、卑屈になるのではなく、胸を張って、厚かましく真剣に祈ります。恥知らず
で慎みのない人は、祈る人です。それは真実の祈りです。期待できないところで期待することが祈りです。資格
のない人が祈るがゆえに祈りです。資格を持つ人は祈りません。資格を、求めるものと交換できるがゆえに、わ
ざわざ祈らなくても生活が成り立つからです。資格がない人が祈るのですから、祈りは、イエス様が言うように厚
かましいことです。

  人間は、苦しいときの神頼みであっても、苦しいときには祈ります。祈らない場合は、祈っても聞いてもらえ
ないと思っているか、自分は祈る資格などないと諦めているときです。逆に、毎週礼拝に出たからといって、祈り
を聞いてもらえるための資格を蓄えているわけでもありません。礼拝で聞かされるのは、祈りを聞かれる資格が
ある人は誰もいないということです。私たちは罪人であり、悪いことしか考えません。罪を認めたとしても、「罪の
認識を深めることで、祈りを聞いてもらえる資格ができたのだ」と思い込んでしまうことすらあります。人間が心の
中で計画することは悪でしかありません(創世記8:21)。ですが、それでも人は救われたいと願います。その
ため、なんとか神に近づこうと資格を得ようとします。その結果、資格はないと聞かされます。ルターが言うように
、私たちは罪深く、善をおこなって罪を犯してしまう人間です。その人間は救われる資格がありません。ですが、
救われがたいがゆえに、祈らざるを得ません。もし救われる資格のある人だけが救われるならば、救いではあり
ません。救われがたいがゆえに救われることが救いです。しかし、自分が救われがたいことを知るのは、律法、
聖書、御言葉によってです。御言葉によって、恥知らずにもキリストによって救われると聞き、信じたからです。
慎みのない祈りをしたからです。

  もし、「これだけ良いことをしているのに神は祈りを聞いてくださらない」と考えれば、傲慢になります。あるい
は、これだけ奉仕をしている、これだけ献金をしている、という気持ちがあるとしても、その奉仕をするための健康
や時間、お金は、神からいただいたものです。ところがそれを、自分が獲得してきたものの一部を神にあげたの
だと考えると、奉仕や献金自体が感謝とはなりません。むしろこれだけの労働やお金を提供したのだから、代わ
りにサービスを寄こせ、私の言い分を通せとなってしまいます。私は他の人よりも奉仕や献金をしているのだから
、祈りも多く聞かれるべきだと考えてしまいます。あるいは、他の人より奉仕や献金が少ないから祈りが聞かれな
いのか、と思ってしまいます。それでは、奉仕や献金は神の恵みをいただくための交換物になってしまい、奉仕
や献金ではなくなります。

  逆に、「私は、恥知らずにならなければならないほど辛い立場に追い込まれているのだから、私こそ祈りを聞
かれて当然だ」と考えるのも間違いです。それは他者との間で、どれだけつらい状況にあるかの競争をしている
だけです。自分はこれだけ切羽詰まっており、だから祈りが聞かれる資格があるのだと、形を変えた獲得競争に
陥ってしまっています。私たちは生きる中で、他者と比べて理不尽を感じることがあります。しかし、祈りが聞か
れるようにあれこれ画策するとき、私たちのうちからは悪いものしか出てきません。

  では、本日の福音書に記されている、イエス様が教えた主の祈りも厚かましい祈りなのでしょうか。主の祈り
は、弟子たちが教えて欲しいとイエス様に願ったがゆえに与えられた祈りです。イエス様が教えたのですから、厚
かましい祈りではないと思いがちです。しかし、主の祈りもやはり厚かましいのです。なぜならこの祈りにおいても
、資格のない私たちが祈る祈りだからです。御心が地上になるとは、自分たちで破壊した地上に神の御心が
なることを求めることです。自分たちで破壊し、御心などないような状態にしておきながらも祈ります。それに、
自分を傷つけた人を赦せないにもかかわらず、赦しますとか、赦しましたからと祈ります。結局赦さないにもかか
わらずです。聖書から外れますが、ギリシアの詩(ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』)では、人が怒りを抑
えることはギリシアの神の介入がなければ困難であり、仮に神の介入によって一時的に怒りを抑えても、復讐し
ないと怒りは再発する、という話があります。そして復讐を果たしても怒りは晴れません。ただそれでも、怒る自
分と同じような境遇の者との共感によって怒りが晴れることがあるのですが。ともあれ、聖書の話に戻りますと、
赦してもいないにもかかわらず、私の赦しは神からしか与えられないがゆえに、厚かましくも主の祈りを祈ります
。日ごとのパンも同じです。日ごとに与えられる資格などありません。しかし与えてくださいと祈ります。誘惑に陥
ってしまうのは自分のせいであるにもかかわらず、陥らせないでくださいと祈ります。私たちは主の祈りを祈りなが
ら、それに反することばかりをしています。それにもかかわらず、祈れとイエス様は言います。それゆえに、たとえで
、厚かましい人について語りました。イエス様はそう語らざるを得ませんでした。お利口にしているなら祈りが聞か
れるとは言いません。厚かましく祈るならば、うるさくて仕方ないから神は聞いてくださると言います。神は、私た
ちを愛しているから祈りを聞きます。そうでなければ、あなたは資格がないから聞かないと突き放していたでしょう
。資格はないのですが、愛するがゆえに聞きます。うるさいから聞くというよりも、愛がなければ聞かないでしょう。
しかし、神の愛を受け取らない人は、資格を有することを求めます。そして、神の前で自分の資格を披露しよう
とします。こうして、神の愛から離れ、神を愛さない人として生きることになります。

  私たち人間は、神を愛しているならば、日々自分の罪を認め、悔い改め、罪を犯しても罪の告白をします
。そして、厚かましいと認めつつも、イエス様が祈るようにとおっしゃったので祈ります、聞いてくださいと祈ります。
私に資格などないと認める人が祈る人です。キリストの十字架はそのあなたのために立ち続けています。あなた
を愛するキリストが、厚かましく祈れと勧めています。


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