2022年  8月 21日  聖霊降臨後第11主日(緑)

      
聖書 :  イザヤ書             58章 9節b~14節
            詩編                103編 1節~8節
            ヘブライ人への手紙       12章 18節~29節
            ルカによる福音書        13章 10節~17節

      
説教 : 『 束縛から解かれるべき 』
                           木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  374、 470、 333、 266

ルカ13:16 「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。
安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
ここで、安息日は守られなくても、どうでもいい事だと、イエスがおっしゃっていない。
我々に、誕生の始めがあり、命の終わりある人間にとっては、原則的には、安息日は守るべきものな
のです。それは命を与えてこの世に遣わしてくださった命の根源者を仰ぎつつ、命を下さったお方を礼
拝し、従ってゆきたいからであります。
それゆえにこそ、アブラハムの娘への神の憐れみの行使には、安息日だからこそ行われるべきなの
だと明言なさっておられるのです。
本来!安息日こそもろもろの束縛から解放される日であるのだ、と、鮮明に宣言されている箇所でご
ざいます。
その辺の事に言及しているのが、「人の子は安息日の主である」ルカ6:5、マル2:28、マタイ12:8
主は憐れむべきものを憐れまれるのであります。
彼女の18年間の苦悩と悲しみにイエスは痛く同情されて、この世の風潮に逆らって、トラブルが生ずる
ことを承知の上で彼女を癒されたのです。
会堂長「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
イエス「偽善者たちよ。癒し、癒されるのはいい事だけれど、安息日はいけない、と言うのか。」
会堂長は安息日の規則を盾にとって、イエスが病んでいる女への癒しに抗議をしています。
多分ここで癒しが起こったのでは、会堂長は自分の役割が損なわれると危惧したのかもしれません。
会堂長は病人の女には同情している仕草をしながら、自分の権限の下にある安息日の礼拝中の癒し
は行ってはならないとイエスに抗議したのでした。
会堂長は自分の立場を主張してはいるが、それは自分たち一般を基準にしてしか見ようとしていない。
それゆえに18年間の悪しき霊に束縛されてきた彼女の苦悩には同情できないでいます。
ところが、イエスはかえって、真の安息日の意味を明確にされたのでした。
本多哲郎訳「安息日にこそ、その束縛から解放されて当然ではないのか」。
田川健三訳「見よ十八年間もサタンが縛り付けていたこの女は、アブラハムの娘である。彼女は安息
日にこの縛りから解放されるべきではないのか」。
同じ「安息日」の言葉と概念を使いながら、この女をさらに縛るのか、いや!!安息日にこそ、アブラ
ハムが信じた神の恵みによって解放されるべきであるのです。
イエスはこの女を慈しんで病の束縛から解放なさったのでした。この病んだ女にとって、「安息日は喜
びの日」となり、神を賛美したのです。
この世に生きる限り、六日の間はこの世の規則に従って働くのです。
しかし、七日目の安息日にはこの世のあらゆる束縛から解放されて、神であられるイエス様が腰に帯
を締めて、接待をなさってくださる日なのです。
イエス御自身は安息する日ではなく、アブラハムの子たちであるイエスの輩である私共が休息する日
であるのです。
現実は教会内にも、いろんな課題がございます。それを理解して、一つ一つ解決して行かねばならな
い課題を私どもはかかえているのですが・・・・。安息日とは、本来はそうなのです。

<課題の一つ>
「定型発達者」と言う言葉が使われています。
この言葉は、「盲人」に対しては「晴眼者」と言う言葉は随分以前から使われています。
それは「健常者」と言う言葉は、「盲人」は健常者ではない。と言う意味にとらえがちになる危険を避け
るためであり、盲人である人の基本的人権を守る意図があったのだと思います。
それと同じく、「定型発達者」と言う言葉も、普通一般に社会生活の出来る人の事を「健常者」と言わず
に「定型発達者」と表現するのは、「自閉スペクトラム症」の人や「注意欠如・多動症」の人、「心的外傷
後成長」をした人々、「性的少数者」の人権を保護するために人間の優劣を連想させる言葉を使用せ
ずに、現実にある課題を採り上げたり、そうした本人たち自身がこれらと取り組んで発言する場合に、
自分たちと違って大多数を占める人々と齟齬する、行き違いが生ずる場でどのように折り合いをつけ
て住みやすい社会へと前進できるか。
そうしたことを採り上げて、思考する上で、「定型発達者」と表現しております。
脳の構造が違っているだけの事であるのだ。人間性の優劣の事柄ではないのだ、と表明しているので
す。世間は「晴眼者」や「定型発達者」に合わせて、仕組みや、建物や、約束事が出来上がっているだ
けのことに、問題があるのである。例えば、建物や道路に段差さえなければ、老人も若者も躓くことは
ない。とか・・・。
特に、イエス様の生きた時代、二千年前ならば、なをさら普通の人に合わせて、建物は建造され道路
が引かれました。さらに、生理中の女性や重い皮膚病の人は安息日礼拝の集いに参加できないなど
の約束事などが決められていました。その社会構造では身体に何らかのハンディを持っている場合に
はことさらに不便であり、危険であったでしょう。盲人の方が駅のホームから転落して亡くなるニュース
を今でもしばしば見聞きいたします。
会堂長に対して、イエスは「偽善者たちよ。癒されるのはいい事だけれど、安息日はいけない、と言う
のか。」会堂長は良い人であり、慈悲深い人を演じながら、安息日規則には強くこだわっているがゆえ
に、この千載一遇のこの機会を奪うのか!と偽善者呼ばわりしました。18年間も患っている人の苦悩
が分かっていない。それは「晴眼者」である私たちには、盲人の方の生きにくい社会構造や約束事の
煩雑さなどは、分からずにいるのと同じです。分かったつもりですが分かっていないことの方が多いの
です。
本人が当事者(ASD(自閉スペクトラム)とADHD(注意欠如・多動症)の文学研究者。
京都大学大学院博士課程から日本学術振興会の特別研究員を経て京都府立大学文学部欧米言語
文化学科准教授(ドイツ言語文化・ドイツ語教師))である横道誠の著書「みんな水の中」の発言からの
引用
「脳の多様性を享受する社会を制度的に、生活上のインフラの整備などを通して、身体的物理的にも
精神的にも発達障害者と定型発達者の両者のためにも、人と人との間の空気を味わいのあるところ
にして、脳の多様性が認められ,受容されて住む社会へと創造してゆく」ことを著者は期待し願っている
。「しかも濃厚な魔法の世界を生きている異文化の併存を認識することは、定型発達者にとっても社会
が豊かになることを意味するだろう。」p59



                                                    
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