2022年  8月 28日  聖霊降臨後第12主日(緑)

      
聖書 :  箴言                25章 6節~7節a
            詩編                112編
            ヘブライ人への手紙       13章 1節~8節、15節~16節
            ルカによる福音書        14章 1節、7節~14節

      
説教 : 『 お返しを期待しない 』
             信徒のための説教手引きより 明比輝代彦牧師 信徒代読

      教団讃美歌 :  461、 331、 321、 291
  席順というのは、昔から社会における人間関係の力の上下を示すバロメーターの一つでありました。
  たとえば家庭においても、以前は上座は、その家の主大黒柱である父親の席でした。そして、長男以下の
息子たちが年齢順に座り、母親や娘たちは末席にまわるのが習慣でした。

  社会においても、会社では社長から、学校では校長から、病院では院長からといったぐあいに始まり、社会
的地位の上下関係が明確になっています。教会手帳を見てみましたら、教会関係の学校法人では、理事長
から始まり、学長(校長・院長)・チャプレン・教授・事務長という順番になっています。

  私たちの教会ではどうでしょうか?おもしろいことに、たいていどこの教会でも、信徒の皆様の座席は決まっ
ているようです。おいでになった順番に前からではなく、定席があるのが普通です。教会には席順はありません。
つまりこの世の社会的肩書きを取りおろして、わたしたちは神様を礼拝します。そして、おおむね中間あたりから
後ろへ着席し、最前列が空席になるのが常です。

  本日の日課はであるルカ福音書1411節には「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
」と教えられています。高い低いや、上下というのは、人間関係を示しており、同時に人の心の傲慢さや謙遜さ
を表しています。この言葉は、ルカ福音書151節~52節に記されているマリヤの賛歌として有名な「マグニ
フィカート」に示されています。

  私たち人間は、能力の高いものをより価値のあるものと評価します。知的能力を知能指数であらわしたり
、テストの成績がそのまま人間的評価に採用されて、社会的序列になってしまったりします。運動能力の高い
人は、高く評価されます。プロのスポーツ選手の世界では、能力そのものが報酬の高低を決めます。報酬が高
ければ、それだけ財産を多く所有することになり、貧富の差を生み出す結果にもなります。

  そんな人生を生きていくうちに、大きな錯覚をしてしまいます。能力のある方が、人間的にも優れているとい
う錯覚です。肉体的・知的能力が低ければ、低く評価されて、人間的にも劣っているという錯覚です。人は常
に、常に高く評価される人は優越感をもち、心が傲慢になりがちです。常に低く評価されている人は劣等感を
もち、心が卑屈になりがちです。日本の社会は、学歴社会と言われます。その人の人間性よりも、どの大学を
出ているかによって、社会的評価が決まってしまいがちです。東京大学出身と言えば、社会的には一目おか
れ尊敬の目で見られます。しかしながら、イエス様は、当時のユダヤ社会の中で、ユダヤ人の民族的優越感や
、律法学者や祭司階級のエリート意識にはっきりと「ノー」と宣言されます。特に、ユダヤ人によって不当な差別
と偏見をもたれ、社会的に蔑視されたり無視されたりした、非ユダヤ人・徴税人・犯罪をおかした人・病気や障
害のある人などの友となり、積極的に交わりをされました。

  宴会での座席は、特に社会的上下関係がはっきり示されます。これは、最近の日本での結婚披露宴など
での席順にも表れています。席順を決めるのは、招いてくれた人であり、招かれた者が自分で決めるのではあり
ません。それと同じように、神の国においては、神さま御自身が私たちの席順を決めてくださるのであり、わたし
たちが決めるのではない、ということです。

  能力主義は、どんな場合にも顕著です。イエス様の譬え話にも、それが語られています。マタイ福音書20
116節に書かれている「ぶどう園の労働者の譬え」では、一日中働いた労働者が、労働時間の短い労
働者と同じ賃金をもらったのに対して不満をもらしています。それに対し、イエス様は「後にいる者が先になり、
先にいる者が後になる」と、神の国における逆転を語っています。

  本日の日課の後半で、イエス様は、招待者が招待客を選ぶ場合の基準を教えておられます。
  その基準は、招待されたことに対し、お返しができるかどうかであり、世俗的基準とは違って、お返しのでき
ない人こそ招待すべきである、と教えておられます。

  通常の人間関係では、親切や恩を、相手に対する「貸し」と考えます。「貸し」対して「借りがある」と思い
ますから、お返しをしなければと思うのが常です。プレゼント・お祝い・お見舞い・・・・・・、すべてに返礼が必要と
考えてしまいます。ですから、返礼がないと、失礼な人だ、と思えてしまうのです。

  相田みつをさんの書物に、次のような言葉が書かれています。
  「あんなにしてやったのに / 「のに」がつくと / ぐちが出る」
  ここでも、相手に対してしたことが、恩着せがましくなっていて、してやったのに、お返しがないことを不満に思
い、つい愚痴が出てしまう、と語っています。いまでは、普通のことになったボランティアにしても、「してやった」と
いう思いですと、あんなにしてあげた「のに」、ちっとも感謝してくれないとか、お返しもない、という不満や愚痴が
出てしまいます。そんな親切やボランティアは、しない方がよいのかもしれません。

  人間関係を、物の貸し借り、恩の売り買いにしてはならないのです。
  ローマ書138節に「互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても借りがあってはいけません」と、パウロ
はローマの教会の信徒に宛てて書いています。

  心を物質的な金銭で売り買いすることはできない、という教えです。心は愛によってこそ支配されるものです
。愛されてこそ、愛するようになります。

  お返しを期待しない行為を「無償の愛」と名づけてよいと思います。常に計算する打算的な、利己的愛で
はなく、自己犠牲的愛こそ、救い主イエス様がその生涯を通して私たち証ししてくださった本当の愛です。

  究極的には、イエス様の十字架の死に、神様の愛が示されました。無条件で救いにお招きくださるイエス
様の招待に、心から感謝して応えましょう。お返しは必要ないのです。

  お祈りいたします。父なる神、私たちを神の国の食卓にお招きくださり、感謝いたします。すばらしい食卓に
あずかり、神様の祝福を十分にいただけますようにお導きください。その感謝と喜びを、一人でも多くの人に分か
ちできますように。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン


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