2022年  9月 11日  聖霊降臨後第14主日(緑)

      
聖書 :  出エジプト記          32章 7節~14節
            詩編               51編 3節~12節
            テモテへの手紙Ⅰ       1章 12節~17節
            ルカによる福音書       15章 1節~10節

      
説教 : 『 あきらめない神の愛 』
             信徒のための説教手引き 明比輝代彦牧師 信徒代読

      教会讃美歌 :  437、 307、 318、 392

  本日の説教は、以前、富士教会の牧師であられ、現在新霊山教会で牧会されている明比輝代彦先生
による説教です。

  私たち日本人が子どもの頃から歌ってきた童謡のひとつに、「出た、出た月が、丸い、丸い、まん丸い、盆の
ような月が」 という歌があります。

  この歌の中では、満月の月の 「丸さ」 と、丸いお盆の 「丸さ」 とが、比較対照されて、「盆のような月」 と
表現されています。

  三日月や上弦・下弦の月ではこの比喩は成立しません。
  またお盆にしても、丸いお盆を上からか下からか見る場合にのみ、この比喩が成り立つわけで、お盆を横か
ら水平にして見ると、一枚の板となり、「盆のような月」 にはなりません。

  このことを、ある聖書学者は 「譬え話には正しい入口があり、そこから入らなければ、譬え話を正しく理解
できない。」 と表現しています。

  福音書には、主イエス様がお語りになった 「譬え話」 がたくさん書かれています。
  今日の日課であるルカ伝15章には、三つの譬え話がありますが、実に判り易い譬え話です。
  私は15章11節~32節の三番目の譬えこそが、譬え話の最高峰と思っており、読むたびに、主イエ
ス様の深くて厳しい愛のまなざしと心とを新たに感じます。

  この譬は前半に登場する 「弟息子」 に偏して 「放蕩息子の譬え」 と呼ばれてきましたが、「神の愛の譬え
」 とする方がイエス様の意図を伝えることになると思います。

  ルカ伝15章の三つの譬えには、共通した主題があります。
  第一は、迷子の羊の話であり、第二はなくした銀貨の話であり、第三は二人の息子たちと父親の話です。
 
 共通しているのは、いずれも 「失われたものが、再び見出された喜び」 が語られており、譬え話の終わりに
、主イエス様ご自身が 「一人の罪人が悔い改めれば、天の神様の喜びはいかに大きいことであろう」 と結ばれ
ていることです。

  ユダヤ人の生活と最も結びついている家畜は 「羊」 と 「ろば」 でした。
  もともと、ユダヤ人は 「遊牧の民」 であり、羊を飼いながら中近東世界を移動してきた民族でした。

  所有財産を表すのに、ヨブ記1章3節に書かれた例のように、「羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき
、雌ろば五百頭」 などと言っていました。
  ヨハネ伝10章11節には、有名なイエス様の言葉として

  「私は良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 と記されています。
  羊は、犠牲のいけにえとして祭壇に捧げられてきましたし、その肉は食されてきました。 また、羊毛は刈り
取られ、衣服として用いられてきました。
  羊飼いと羊の関係は、とても親密であり、外敵から身を守る武器を持たない羊のために、羊飼いは命がけ
で羊を守ります。

  他人には同じように見える羊を、一匹一匹、見分けて名前をつけています。 ですから100匹の羊の内
の1匹がいなくなれば、放っておくことなどしませんでした。

  99匹を残しておいて、迷子になった1匹を見つけるために、羊飼いは危険な崖や山道を捜し回ります。
  これは99匹と1匹とどちらが大事なのかという問題ではありません。

  先程申し上げましたように、譬え話の入口を間違えると 「1匹のために99匹を危険にさらしてしまい、
更に多くを失うことになりかねない。」 という類の問題とすりかわってしまいます。

  よくあることですが、山で遭難した人を救助する救助隊が二次災害にあわないために、救出作業を一時、
見合わせて天候の回復を待つことがあります。

  この問題は、イエス様のこの譬では問われていません。
  ここでは、ただ迷子になった1匹の羊のみが問題なのであり、この点に集中いたします。
  最近の教育界の事例で申しますとこうなります。
  あるクラスに問題児がいて、担任の教師がこの一人にだけかかわっていると、クラスの他の子どもたちが置き
去りにされるという理由から、この問題児を放っておくか、どこか他に移して欲しいという願いが、親の側から出さ
れる。 このような問題です。

  つまり、羊飼いが迷子の羊とどう関わるかのみが問題なのです。 他の羊のことは、ここでは問題とはなりま
せん。

  少し前のルーテル教会の例でお話するとこうなります。
  信徒が10人の教会と、100人の教会に、牧師はどう関わりますか?
  このような問いに対して、現実には信徒数の多い教会の牧会に時間もエネルギーも多く費やすのですが、
信徒数の少ない教会を見捨てることなどできません。 
  2000年8月に開催された第19回全国総会で、佐賀県の大町教会の解散が承認されました。

  やむをえないことでしょうが、承認を求められ、挙手をした明比牧師には、ある種の痛みがあったそうです。 
これは厳しい現実です。

  99匹と1匹の比較が問題ではありません。 主イエス様にとっては、この1匹は失われてはならない1
匹なのです。 たかが1匹くらい・・・・・・という数の問題ではありません。

  ですから、この1匹を見つけるまでは捜すのです。 あきらめないのです。
  ここが私たち人間と神様との違いです。 私たちには限界があります。 それ以上はできないのです。 これ
が人間のもっている悲しい現実です。

  1967年5月から10月まで、明比牧師は日本ルーテル神学校の6年生で、宣教研修(インター
ン)のために、熊本の神水教会にお世話になったそうです。

  その夏の8月、当時の九州YMCAの夏期学校が、ルーテル阿蘇山荘で開かれました。
  九州各地の大学生が約100人出席し、講師には九州大学の滝沢克己先生が招かれていました。 
インターン中の明比牧師は、実習のためにこの夏期学校に準スタッフとして参加していました。
  3泊4日の日程の二日目の午後、自由時間が終わり、夕食の時に、参加者の一人の女子大学生がい
ないことが判明しました。

  夕食後、ただちに山荘周辺を捜しましたが見つかりませんでした。
  翌日はプログラムを中止して、地元の消防団や警察の人と共に捜索活動をいたしました。 それでも見つ
かりません。

  山荘の向かいに見える阿蘇の原生林に迷い込んだら、土地の人でも出てこられない、ということで、最後の
4日目には、みな絶望的になっていました。

  責任者数人のみが残って、他の参加者は山を下りることになり、重苦しい空気の中で最後の昼食をして
いました。

  その最中に電話が鳴り、原生林の向こうの村で行方不明の女子大学生が発見されたという、嬉しい知ら
せが入りました。

  重苦しい雰囲気が一気に、明るい喜びに変わり、参加者一同、感謝の祈りを捧げて下山しました。 これ
は今から約55年前のできごとですが、明比牧師には忘れられない体験になったそうです。

  人間の捜索には限界があります。 行方不明者の捜索では、ある期間は必死の努力を致しますが、長時
間になりますと、他人である捜索隊員には 「あきらめ」 の感情が起こります。

  その人のみに関わることができない、という仕事上の制約もあり、やがて忘れ去られるのです。
  しかし、愛する家族にとっては、あきらめきれません。 帰還を信じて、いつまでも待っているのです。 羊飼
いが迷子の羊を 「見つけ出すまで」 捜しまわるのと同じ心です。

  救い主イエス様は、一匹の羊をおろそかにされません。 
  命をかけて捜し求めてくださる 「まことの羊飼い」 です。
  そして、見つけたら、喜びのあまり、その羊を肩にかついで連れ帰り、友達や近所の人と共に喜び祝ってくだ
さるのです。

  救い主イエス様の、あきらめない徹底した愛の深さと真実に出会い、私たちは心からの悔い改めをすること
ができるように導かれるのです。

  お祈りいたします。
  まことの羊飼いである神様。
  行く先がわからずに、迷っている私たちを探し求めてくださる、神様の愛に心から感謝いたします。 み子イ
エス様の命がけの愛によって、私たちの罪があがなわれ赦されていることを感謝いたします。

  私たちが悔い改め、新しい歩みを始めることができるように、助け導いてください。 み子、イエス・キリストの
御名によって祈ります。     アーメン


                                           
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