2022年  9月 18日  聖霊降臨後第15主日(緑)

      
聖書 :  アモス書             8章 4節~7節
            詩編               113編
            テモテへの手紙Ⅰ       2章 1節~7節
            ルカによる福音書       16章 1節~13節

      
説教 : 『 神と富とに 』
                      木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  349、 365、 410、 467

「神と富とに仕えることはできない。」
「二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を軽んじるか、どちらかである。」
常にどちらかに、その瞬間には、立っているのだから、両方を同じくらいに大切には出来ないものだ。
それならば、神を第一に選び仕えなさい。富は生きるための便宜として、すなわち手段として、便宜的なものと
して使いなさい。そのことに命を懸けることではない。
  これらの言葉は、真っ当なことであります。

  しかしながら、凡夫で煩悩を裡に抱えている私どもは、多くの課題を抱えて生きておりますので、時には、
収入や蓄えが消滅するのは命が削り取られるようで、深い悩みに落ち込むのではないでしょうか。だから富を出
来るだけ多く蓄積することに必死になるのです。そうした傾向が煩悩ある人間には付きまとうのです。そうした実
態を目の前にして、イエスはこれを語っているのです。
  巷で、また雑誌の特集記事で取り上げております。

1.         そのことに思い悩むよりも、現時点では、足るを知って生きることがたいせつである。
2.         賢く金銭管理をいたしましょう。安全で有望な投資先にお金を預けましょう。
3.         やってくる老後生活の備えとして、倹約した生活をして、貯蓄しましょう。などなど・・・・。

< 所有価値と存在価値>を巡って
  荒井献著「『強さ』に抗して」――大学教育の社会的責任に寄せてー-の文章のなかで目に留まった言
葉です。P237 今日は直接にはこの著書の内容自体には触れません。ただし、説教題に採り上げた主題で
ある「神と富とに」ついて考える上で、この「所有価値と存在価値」と言う言葉が持つ視座は大切であって、私
のイメージを膨らませてくれました。
  私の心に湧き上がってきたいくつかの歌や詩を紹介しながら、イエスが語った「神と富とに」を巡って、その解
決策とは別にして、自分が納得して共感する心情が湧き上がってくだされば幸いです。


石川啄木 「一握の砂」処女歌集発行 明治4312月1日発行25歳  明治454月13日 27歳で永眠
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思う p11
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る p31
「一握の砂」によって第一線歌人としての地位を確立したが、貧しさから起因するいろんなことが相重なり混じって、27歳の早世した。

山上憶良 万葉集より「銀も金も玉も何せむにまされる宝こにしかめやも」
  読み:しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
  現代語訳:銀も金も玉も、いかに貴いものであろうとも、子どもという宝物に比べたら何のことがあろう
奈良時代初期の歌人。702年に遣唐使として中国に渡り、帰国後は後の聖武天皇に仕える下級役人や地方国守などを努めた。学
識があり、歌を詠むことにも優れていた。憶良の歌は『万葉集』に70首あまりが掲載されており、なかでも「貧窮問答歌」は、当時の農
民の苦しい生活に暖かい同情の目を向けて歌ったものとして有名である。生きてゆく上で金銀の大切さを十分に知りながら、子供と言
う宝とは比較にならないものだ。当然自分は子供を尊び選ぶのだ、と。


マルコ8:36,37
  人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

  自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


玉木愛子集「わがいのち わがうた」より
18871969年、大阪生まれ。ハンセン病を宣告され、熊本の回春病院、岡山の長島愛生園に入院。失明後、作句をはじめる。
大阪・島の内の材木問屋に生まれた玉木愛子さん。家庭は裕福で、幼い頃より、踊り、琴、三味線を習う生活だったといいます。
1899
年、女学校の検診でハンセン病を宣告され、学校を退学、人目をさけて自宅での療養生活に入ります。

1919
年 妹弟たちの結婚の支障になる事を恐れて、熊本のハンナ・リデルが創立した私立ハンセン病病院の回春病院に自ら入院し
ます。

1921
年 洗礼を受ける。
1929
年、病状が悪化し、右足を切断する。
1935
年、牧玲二と結婚。  しかし1937年には失明。
1955
年。自伝「この命ある限り」を出版します。1969年死去。81
彼女は、こういう言葉を残しています〜〜

『肉の体がかゆくなり耐えきれず、霊の目が開かれたことを感謝します。まつげが抜けて初めてまつげに感謝することができました。まつげ
がないと、チリが目に入ってくることを初めて知りました。神様はまつげをつけてチリから私たちの目を守って下さっていることがわかりました。
同じように、この病によって、感謝を知る人となることができ、神様に感謝します〜。』

「黄金より牡丹より母(いと)しかり」 p233
「目をささげ手足をささげ降誕祭」p241
「こほろぎや貧しけれどもひたすらに」p240
「明けくれの居間が聖堂クリスマス」p251

旧約聖書箴言の言葉から
30:7-9
二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を/わ
たしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってく
ださい。
飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの
神の御名を汚しかねません。(口語訳聖書より)


「木下さん! 書留郵便です!!!」 食べる物がなく、思い悩んで、祈っていた時の朗報体験
  私は昔も今も時々、お金があったら、なあ!!? と思うことがあります。一度もかないませんでしたが。
  牧会の相談で時々思うことは、当面の問題はお金がない事が原因ではないのか!!? と。
  土地の買取りを持ちかけられることが時々ありました。留守番しながら大学に通っていた池尻の300坪の土地、上諏訪教会の
土地500万円 親戚筋に買ってもらって避暑地にすれば!! 島田教会の土地は5000万円

  私は土地を買うだけの金銭があったらなあ!!と思うチャンスに立ち会いましたが、一度も適えませんでした。その分、今はとても身
軽です。

  私のダニ騒動が8月7日、21日にあり、皮膚科に通っています。完治には至ってはおりませんが、皆様
方のおかげで9月4日以降は新たな被害は受けておりません。皮膚科の医師からは「教会のどの部屋で泊っ
ているのですか?」 「実は隣に館があり、8つある部屋の一つにベッドを置いて休んでおります。これまでに、こ
んなことはなかったのですが・・・・」 8ツもある部屋の一つか!!と、

  都内に住んでいる人からすると珍しいのでしょう。その皮膚科は集合住宅の一階の一部分を借りて開業し
ているようでした・・・。

  私が心に思い描く住まいは門を入ると木立が続く草の道の先にある小さな館です。定年の今は、門柱から
木立の下を300歩歩いて玄関に到達する五階建ての3階に住んでおります。賃貸マンションです。

  これまでに、小さい教会を転任してきたのですが、一番広かったのは、今の諏訪教会の600坪の土地、
門柱からは80メートル車で直進したところに小さい教会堂と閉じた園舎がありました。

  これ等はわたしの所有物ではありません。私が自由に使って草取りをしながら、皆さんと一緒にいろいろと
活用して居りました。

  ひかり教会には七年いたのですが、東海ルーテル聖書学院の土地1000坪の半分を売却したお金を
東京の日本ルーテル神学校に寄付して、残り500坪の土地にありました。これ等は私の所有ではありませ
んが、今にして思い返して見ますと貧乏牧師にしては贅沢で愉快な思い出であります。そこには所有ではなく
、そのもの自体をまず有効に生かして用いる事が、創造主の御心であったのだ、と。

  一般的な常識としては、生活して生きてゆく上で、出来る限りの経済的富を蓄えておきたい。その上で、
所有欲だけに振り回されることなく、神様から与えられた子や孫と、家族を優先的に大事にする。そこには、自
分が存在している事の意味とその重要性が明確に捉えられるのです。自他ともに、付加価値の多さに寄らず
に、人であり、生命あるもろもろの存在自体が大切になって行くのです。
  しかしながら人がいったん富を手にしたり、或いは本当に貧窮に落ち込むと、金銭の力に振り回されて、存
在の掛け替えのなさを忘却するものであると警告しているのです。(存在の権利擁護の必要性)ここで日本
語に翻訳されている「富」はアラム語の「マモン」からの訳です。13節で「二人の主人に仕えることはできない」
と言っているのは、富・マモンを自分の主人として仕え礼拝する心情はマモンを神格化する危険を言及してい
るのです。ヤハウェとマモンが神の座を争うことになる、と。日本語に「拝金主義」と言う表現があるように、やや
もすると、金銭や自分の腹を神にしてしまう短絡に陥りやすいのです。自分自身の最終的な行動基準にして
しまう傾向に陥りやすい。と警告しているのです。その偶像化した金銭はやがてその人を裏切って、マモンの奴
隷にしてしまうのが常道なのです。マモンに対抗して自力で戦うのは至難です。だから、自分はイエスの十字架
によって、神様に買い取られた者であり、神様に献げられた存在であると、固く信じて生き抜くほかはないので
す。やがて自分の所有だと思っていたわずかな富もこの地に残して、我々は旅発って逝く存在であるのです。
  信仰者の旅立ちは、キリスト・イエスによって、永遠の世界へと招かれて逝く旅路です。

  恐れることはありません。神様に信頼して、残された生命を大切にして、彼や彼女と手を取り合って、自由
に生きて参りましょう。イエスは御父に祈られました。
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者(マモン)から守ってくださることです。真
理によって、彼らを聖なる者にとしてください。」ヨハ7:15-17


主よ、私どもを憐れんでください、アーメン。


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