2022年 9月 25日 聖霊降臨後第16主日(緑)
聖書 : アモス書 6章 1節、4節~7節
詩編 146編
テモテへの手紙Ⅰ 6章 6節~19節
ルカによる福音書 16章 19節~31節
説教 : 『 慰め 』
静岡教会 光延 博牧師
教会讃美歌 : 203、 328、 402、 337
今日のお話について解説書には、「どこの宗教においても作り出される
因果応報の思想」(『新共同訳新約聖書注解』)とあります。イエス様は
その地方にあった当時の思想・民話を用いて、人々に人生の終わりを見つ
めさせられます。
「ある金持ち」はラザロの存在を、そして名前もちゃんと知っていまし
た。辛い状況にあるラザロを無視して金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし
ていました。ラザロという名前は「神は助けたもう」という意味です。金
持ちは彼自身への「神は助けたもう」を見失っています。財産は神様から
与えられた恵み、祝福であったはずです。しかしこの金持ちは恵みを与え
てくださっている神様を忘れている、つまり自分の命の根源・自分自身・
命を生み出されたお方、命が戻って行くお方を見失っています。神様が大
切にされている自分や他者、そして他者の痛みが見えません。生き方を顧
みることもなく彼の人生は終わりました。どんなに莫大な財産に囲まれぜ
いたくに過ごせたとしても、それは本当の幸福ではないでしょう。彼は死
を迎えてその虚しさ(28節「苦しい場所」)にさいなまれます。彼は「自
分の」兄弟がその歩みを正していけるようにラザロか誰かを遣わして伝え
てほしいと懇願しましたが、29節、31節の言葉が語られたところでこのお
話は閉じられています。
旧約聖書には、自分の命の根源である神様のもとにあって、人が独りで
生きることは良くないこと、他者と共に生き助け合うところに命の祝福が
あることが書かれています。貧しさの中にある同胞を助けるよう求められ
る神様の御心が多く記述されています(申15章7-11節、イザ58章6-10節な
ども)。イエス様は、最期まで御心を尋ねそれを行って人生を終えられた
方でした。神様に愛されたご自分を生き抜き、神様から愛された他者を愛
し抜かれたイエス様は死なれてもなお、神様の愛・真実を示されたそのお
姿は、人間を照らす光として人々の中で繰り返し立ち現われ生き続けまし
た。人々の中に神様によって復活させられました。私たちはイエス様によ
って、世の初めから終わりまで、一切をその愛によって統治しておられる
神様、キリスト、聖霊なる神様を知ることができました。死んでも死なな
い、復活の永遠の生命なる神様を、そしてその神様にある私・私たちの存
在の真実を、イエス様はまことにあざやかに現してくださったのです。死
を超えて、今ここでイエス様が私たちに命の根源の事を教えてくださって
います。お互いを大切に助け合って歩んで行こう、そのことを神様は願っ
ておられるのだ、と。
私たち一人ひとりの命は神様のものです。かけがえのないものです。優
劣はありません。しかし私たち人間は互いに優劣をつけたりします。金持
ち、この世で高い位の人、権力を握っている人、有名な人の死は注目され
たり重んじられたりします。世の中で小さくされている人の存在や死は軽
んじられるということがあります。金持ちであろうと貧しい者であろうと
、すべての人一人ひとりは神様が大切にされている尊い存在です。すべて
の人が神様によって生まれ、死をもって神様の御許に召されます。
誰にも知られず道端で死んでゆく、神様のかけがえのない一人の人にマ
ザー・テレサたち神の愛の宣教者会の方々は向かい合いました。神様はど
れだけこの人のことを大切に想っておられるだろうと、この人が誰にも知
られず寂しさの中で最期を迎えることはなんと辛いことだろうと、神様の
御想いが彼女たちの想いと活動となって現れています。このように罪の人
間世界の中、至るところで神様が私たちを大切にしてくださるお働きは確
かに起こっています。
今日の聖書箇所は終末がテーマです。聖書は、時間を超えて永遠の時と
して今ここで瞬間瞬間にある終末と、歴史・時間上の終末とを考えている
でしょう。前者は、今ここに来ている救いの神の国という終末・究極の事
実の事、見ようとするかしないかにかかわらずここに来ている神様の決定
の事です。「金持ち」は神の国にある自分を見失っていました。神様から
与えられた恵みである財産は、神様に感謝し、愛された自分・他者を覚え
るものとして用い、皆と共に生きていく神の国の幸福とはなりませんでし
た。また後者の、時間上の終末の意味では、地球もまたいつか終末を迎え
ます。個々人の事でいいますならば肉体の死である終末は必ず来ます。中
世では「死を覚えよ(メメント・モリ)」と盛んに言われたそうです。死
を見据えて生きるか、「金持ち」のようにただ自分の享楽のうちに歩んで
死を迎えるか。最後には慰めを与えてくださる神様に向かって今自分は存
在していることを覚えて生きるか。
ラザロは生きている中で、自分の名前である「神は助けたもう」によっ
て神様に心を向けさせられた面があったのではないかと思います。辛さの
中にあってもなお、その名前のゆえに今も明日も自分の人生を包む神様を
心に覚えていたのではないか。共におられる神様と共に、そこで死を迎え
たのではないかと想像します。私たちは、それぞれ名前の前に「神様から
愛されている」をつけて自分のことを覚えたいと思います。その私こそが
神様にある本当の私です。自分の存在の根本を見失わないようにしたいと
思います。死を見据えて生きる事が今日の聖書の大事な点でしょう。生命
は神様の恵みです。存分に自分を喜び、他者を喜び、他者と一緒に生きる
ように祝福されている生命です。そこで自分の本来の輝きを、他者の素晴
らしさを見る眼は開かれるのだと思います。「たとえ明日、世界が終わり
になろうとも、今日私はリンゴの木を植える」という言葉があります。ル
ター的な言葉だと言われています。命の根源に還って行く。そのゴールを
見据え、できることをできるだけしてゆくことが許されている。イエス様
が生き抜かれたそのような生命が私たち一人ひとりに与えられ、祝福され
ているのです。
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