2023年  1月 15日  顕現後第2主日(緑)

      
聖書 :  イザヤ書               49章 1節~7節
            詩篇                 40編 2節~12節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ    1章 1節~9節
            ヨハネによる福音書        1章 1節~9節

      
説教 : 『 見よ、神の子羊だ 
                        木下海龍牧師
      教団讃美歌 :  499、 514、 524、 529

   < ヨハネの名前の由来 >
ルカ 1:57-66 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
 1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
 1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
 1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
 1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
 1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
 1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
 1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。

この子には主の力が及んでいたのである。

< バプテスマのヨハネの証し >
 本日の聖書に於いて、バプテスマのヨハネは、適格にイエスが存在する意味を言い表しました。これ
以上短く適格にイエスの存在の本質を言い表した言葉はありません。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたし
にまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

 そしてヨハネは証しした。「わたしは、が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
 わたしはこの方を知らなかった。しかし、 水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方
が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人で
ある』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたの
である。」
 

私ども全ては、ある面、ヨハネの役割を担った或る人によって、イエスを指し示されたがゆえに、
 洗礼を受けるにいたったのです。そして、イエスの後に従う者になったのではないでしょうか。

 私の場合は、病気で休学中に通っていた岩島医院の医師からそれとなく勧められて、その医院の二
階で持たれていた都築集会に出たのが最初でした。十畳ほどの畳部屋に大きな和机が二つ並べられ
ていて、その机の周りに、皆さんが坐って居りました。「あれ!! 中学校の二級先輩の岩島愛子さん
が居る」と、内心ほっとした記憶があります。宣教師のラース・イングルスルード先生、三ケ日高校英語
の中島誠先生、年配の河合泰治さん、石原和子さ、岩島家の兄弟姉妹がた他・・・。隣町の三ケ日集
会から午前中の集会を終えた同年の鈴木荘市さん、内川恵一君らが時々参加していました。お祈りの
時になり、座っている順に祈る順番が回ってきました。私が黙っていると飛び越えて隣の人が祈ってく
れました。

 小教理問答の学びが毎回あり、イングルスルード先生が英語で話されて、中島誠先生が通訳をされ
ていました。時には河合泰治さんが通訳してくれました。河合さんの通訳が、また、かわっていました。
忠実な逐語的な通訳ではなく、話し手の内容を纏めた通訳でした。時には話者が語っていないが、当
てはまる日本の格言や諺を言ったりしてくれました。当時の私は休学中の英語の勉強になると思って
参加しておりました。

 或る時、私が質問しました。「アメリカはキリスト教国だと言うけれど、なぜ広島・長崎に原子爆弾を落
としたのですか」と。するとその集会に沈黙が走りましたが、が、イングルスルード先生は慎重に言葉を
選びながら答えてくださいました。「この戦争を早く終わらせるためには、やむ得ない選択枝でありまし
た・・・・云々」と。彼は苦悩の表情をしながら真剣に応えようとしてくれました。その答えには私は、納得
していませんでしたが、その集会には引き続き出席しました。礼節を保ちつつ本心で付きあって行く場
所になって行きました。その後一年ほどした41日のイースターにラース・イングルスルード牧師から
洗礼を受けました。病みあがりで就職口のない私に、一時的な行く先として、お金もほとんどかからな
いからと「東海ルーテル聖書学院」への道を指し示してくださいました。入学試験は既に終わっていまし
たが、特別な計らいによって、試験を受けて入学が許可されました。

 私をイエスのところへと導いてくださったイングルスルード先生、中島誠先生は明確にヨハネ的な役
割をしてくださったと思います。同時にその集会にはすでに知っている人や温かく私を受け入れて、見
守ってくださった人、そして田舎の街で、イエスを信じて生きている姿そのものが、私にとっては嘘偽り
のない証しとして映っていたのだと思います。一緒に周りにいながらイエスを指し示してくれていたのだ
と、今になって自分の心情を顧みて、そのように思う次第であります。

 私の小さな振り返りから推し量って、私たち一人一人もまたヨハネ的な役割をしているのではないで
しょうか。それが意識的であれ、無意識的であれ、そうしたものだと思います。周囲の人は我々のこと
を見て、教会人であることは知っているのです。だからと言って、むやみやたらに、街頭に立って、イエ
スのことを喧伝するやり方ではなくて、アンデレのように、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたした
ちはメシアに出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。その結果シモンはイ
エスに直に会い、劇的な出会いをしたのでした。身近な信頼関係のある人にアンデレはヨハネ的な役
割をしたのでした。

 その場合、身近な関係であるだけに、自分の内的変化を相手に言い表すのに、いくらかの気恥ずか
しさや、信仰について語る時には、ある種の感動も起こってまいります。自分自身が体験した事実、或
いは感じ取っている事実・実感を自分の言葉で表現するだけでいいのだと思います。

 聞き手側に機が熟していれば即反応があるでしょうし、或いは心の中で思いめぐらすことになるかも
しれません。強要することなく、今自分が感じ取っている心の内を話すだけで良いのです。

 「来なさい。そうすれば分かる」と言う言葉をあなたが言わなくても、聴き手がその言葉を聖霊によ
って直接に聞くことになるでしょう。すべての人が大いなる存在から導かれて生きているのであり、働き
かけられているのです。時が満ちれば芽生えて、花が咲き、その人に相応しい実が実って参ります。

 焦ることはありません。自然体で話せればいいのです。解っていること、まだ十分には理解していな
い、と話していいのです。

 大いなる力にお任せして、自分のすべき役割と日常の仕事と生活をしていればいいのです。それが
今どきのヨハネ的な在り方であると思っております。

 数ヶ月で結果が見えることもあり数年から数十年かかる場合もあります。

川にパンを投げ入れよ、いつの日にか!! あなたはその収穫を手にすることになるであろう

主よ、私どもを憐れみ! 私どもをお導き下さい!! 従ってまいります。アーメン。

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