今日の3つのテキストに共通する、宣教への派遣のテーマについて考え、私たちの 「遣わされた人生」 について考えてみましょう。
キリスト者にとって派遣とはどのような意義を持っているのでしょうか。
そして、私にとってどのような意味を持っているのでしょうか。
まず、第一の日課ですが、アモスを預言者にしたのは、どのような力だったのでしょうか。
誰も偶然にこの仕事につく者はありません。 神の召命があったのです。 神さまが呼ばれたのです。
アモスの場合、神さまが彼の身中で獅子のように吼えておられると言えるほどに、主ご自身がイスラエルの罪
に対して憤り、正義のみこころを激しく語っておられるので、語らざるを得ないというのです。
神は何故、かくも激しく語られるのでしょうか。
それはイスラエルが選ばれた民、「祭司の国、聖なる国民」 だからです。
私たちがそれに値しないのであれば、私たちに対する要求も少ないでしょう。
しかし、神ご自身が律法を授け、共に歩まれる民として選んだということが、私たちがそれにふさわしくあること
を求められる根拠であります。
私たちに力があるから、頭が良いからではありません。
その点について、民数記7章7節で、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの
民よりも数が多かったからではない。 あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」 と言われています。
要するに、神はねたむほどに私たちを愛しておられるので、私たちが自己卑下することや、神以外のたわい
もないものに心傾けることを許しません。
そして、何よりも民の中の不正や不義に対して敏感に反応されます。
神が聖なる方であるから、あなたがたも聖なる者であれ。
レビ記の中心であるレビ記19章の冒頭に 「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。 あ
なたたちは聖なる者となりなさい。 あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」 とあります。
このように、清く正しい生き方を自分に求めると同時に、社会にも求めることは、宣教の一面です。
社会正義を求める伝統のあるアメリカ社会のことを思い起こします。
日本だったら、そこまで追求しないだろうと思われることを、受け入れるキリスト教的土壌が、アメリカにはあり
ます。
おそらく日本人の大半は、キリスト者はそのようにして人を裁く、と非難するのではないでしょうか。
そのことに答えなければなりません。
それが自分から出てくるものであれば、都合のよい他者批判になりますが、神が吼えるがごとく語られる御声
を聞くので、語らずにはおられないというのであれば、その非難は当たりません。
すべての者は、神の義の前には跪かなければなりません。
神がおられるが故に、正しさが求められます。
そのような正しさを追求することを宣教の第一段階とすれば、その上に神の赦しを伝える第二段階の宣教
が来ます。
今、神の義と言いましたが、ルターが言う神の義とアモスが言う神の正義とはどこがどう違うのでしょうか。 英
語で言えば同じです。
元来、同じ意味を持っていた言葉が、ルターの宗教改革の原点として 「義人は信仰によって生きる」 が取
り上げられるとき、もっと深いところで、人間に及ぼす神の正しさが認識されるようになったといえるでしょう。
人間に正しさ・清さを要求する神の義だと、ルターも以前は断然そう思っていました。
しかしそれでは自分のようなものは救われないという点で悩んだのがルターでした。
その点での大展開が、神の義の新しい次元の発見であったのです。
罪びとを義とすることによってご自身の正義を実現される福音の義がそれです。
罪の贖いを他者に求めないで、御子の義のゆえにすべての者を赦しの中に引き入れる神の義があり、神の
義とは根本的に次元の異なる創造的な義であることを発見したルターは二度と迷いませんでした。
キリストにおいてあらわされた神の義を信じ、キリストの義に委ねる者として、もはや自分ではなく、キリストが
私の中で生きていると、パウロと共に言うことが出来る者は自己反省のうちに悩みません。
ただ、キリストにおいてあらわされた神の良き訪れである福音をすべての人に告げ知らせることが、問題の解
決、人間の魂の救い、人間を幸せにする力となることを悟って、福音宣教に邁進するのです。
第二の日課で、パウロは、教会の中で派閥ができ、私は誰々がよい、私は誰々が、といったことで争ってい
るコリントの教会の人々に、キリストの福音が虚しくなるような争いに陥ることがないようにと勧告しています。
パウロは福音宣教のみを関心事となすようにされることによって人間的争いを避けることができるようになった
のです。
福音はそれほどに私たちを次元の高いレベルに生かすものとしてあります。
私たちのうちにも争い事があるとすれば、それは、私たちが福音の価値をどのようなものとして考えているかを
逆に問われる問題ではないでしょうか。
他の事はどうでもよい。 ただ人々に神の赦しの義を伝えることが最高の生きる価値である、と、このことに目
覚めることは、またどれほど私たちを自由にするでしょう。
最後に、そして、最大のクライマックスとして、福音書の日課に移ります。
イエスさまの福音宣教は一言でいえば、この言葉になります。
「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」 天の国、あるいは神の国、どちらも同じ意味です。
イエスさまは、この神の国はいまやすぐそこに迫っている、自分がその働きに邁進することができるのも、その神
の国の近さのためである、とそう思っておられました。
その神の国は人間の力によるのではなく、神の恵みの時が到来したものとして、婚礼の祝宴の時のように喜
びの時として到来するのです。
人類にもたらされる神よりの恵みの力の切迫を感じている者はもはや、律法の義を語りません。
あなたはこうすべきだ、ということを神の律法として語るやり方ではもはや人間を幸福にすることはできません。
ただ人間のレベルに降りて来てくださった方として、キリストはこの福音を、ガリラヤの地で語り始めます。
ガリラヤはユダヤと違って、「異邦人のガリラヤ」 「死の陰の地」 「暗黒」 と言われています。
律法を守ることに熱心な人々ではない人々、いやそのようなものに無縁の地の民が神に受け入れられてい
ると語るために、イエスさまはガリラヤを宣教の地とされました。
マタイはガリラヤから始まり、ガリラヤに終わる宣教を描いています。
マタイ28章16節で復活されたイエスと会うために 「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示して
おかれた山に登った」 と語っています。
その山とはどの山のことでしょうか。 「山上の説教」 の山でもあるし、「変容の山」 でもあります。
山は私たちの価値のレベルを高次の次元に高めてくれる所。
神を知らない者から、神が共におられることを知った者へと変えられるという、高次元に至った者は律法によ
らずとも、神を愛することによって神の御心を守ってゆきます。
神がそれほどまでに近くにある人はもはや律法という遠回りをしなくてもよい。 愛する心のうちに律法の要
求を満たすことができるのです。
ガリラヤに降り立った受肉のキリストは、神の近さを伝える福音によって、人々を暗黒の世界から救い出され
ました。
この福音はそれを聞く者だけでなく、語る者をも救います。
私たちは何を福音として、その一事として励んでいるのでしょうか。
あれもこれも、ではなく、唯一つのこととして、人間を救う力として、何を伝えようとしているのでしょうか。
人間の争い事をさえ乗り越えさせるような神の恵みの力として、福音を捉えているでしょうか。
人間のどのような闇に対してその福音は効果があるのでしょうか。
私たちをして、これ以外にない、と思わせるような福音をひたすら伝えてゆきましょう。
主よ、あなたは私たちに 「悔い改めなさい。 天の国は近づいた」 と言って、私たちのうちに福音の喜びを
伝えるために、この世に来られました。
あなたの福音によって生かされている私たちを、人々の魂の闇に大きな光を照らす福音を宣教する者として、
喜び仕える者として送り出してください。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン