日課のコリント書にはこうあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって
は愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)。私たちす
べての者は、滅んでいく者同時に救われている者です。神様の決定である究極の事
としては、救われている者であり、この事が永遠です。神様の決定によって生かさ
れているその事実を、有限の私たちが思い起こして歩みを進めるよう神様から願わ
れています。
イエス様の十字架には神様が共におられます。私たちが負っている十字架に、神
様・キリスト・聖霊なる神様が共におられます。「十字架の言葉」とは、インマヌ
エルの事実が露わにされたイエス・キリストの十字架についての事であると同時に
、私たちの十字架そのものが語って来る、「わたしはあなたと共にいる。わたしと
共に歩みを進めてゆこう」という神様の呼び声です。
この驚くべき十字架の言葉をパウロは「神の智慧(知恵)」と言います。この世
の知恵、見方からすれば、十字架などは弱さの極み、敗北でしかありません。しか
し、これこそが神様の力が最も現れる場であると言うのです。「この世は、神の知
恵の中にいながら(ルター訳による)、自分の知恵によって神を認めるに至らなか
った(21節 小川修訳)。その神様の絶えない呼びかけ(神の宣教ミッシオ・デイ
神様の宣教に私たちは共に与からせていただきます)こそが、この世では愚かと
言われるほどに小さくて見えない、からしだねほどの命の種から爆発的な力を帯び
た支えを生じさせるものだとパウロは語るのです。
その自分の外側(「エクストラ・ノス」ルター)からの呼びかけは、同時に自分
の外側にある他者が共にいてくれるものとして神様が与えてくださっているという
事実と呼応していると思います。「人が独りでいるのはよくない」(創2:18)と
、神様が他者を与えられていることは、共におられる神様を映し出している恵みだ
と思います。
30節では、「しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは神による」
(小川修訳)とあり、そして「それ故、聖書にあるように、誇る者は主の中に(→
エン・クリストー in Christを)誇れ」と続きます。救い主の中に存在を与えて
くださっている神様をこそ誇りとして歩んで行ってよいのだという解放への招きで
す。私たちは誇り高く生きることができます。救いなる神様の中に私たちすべては
、この私は生かされているのだというこの誇りは永遠の誇りです。何があっても消
えません。
さて、福音書において、イエス様は高らかに宣言されています。「幸福(さいわ
い)なるかな!」(文語訳。文語訳は原文通り正しく翻訳しています)と。私たち
の命、そして人生には途絶えることなく、この創造主であり救いの主である神様の
呼びかけ、福音の原音、基調音が鳴り響いているのです。
神様にしか埋められない心の空洞(心の貧しさ)があります。神様の似姿(像)
(創1:27)に生かされている私たちには、自分の命の根源を求めてさまようとこ
ろがあると思います。アウグスティヌスは「あなたは私たちをご自身に向けて造ら
れました。ですから私たちの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ないのです」
(『告白』)、「あなたの中に憩うまで」と告白しています。「私たちはすべて神
様の中に在る」事実を現わしてくださったイエス様によって、私たちは本当の安ら
ぎを与えられるのだと思います。
神様が見えない、神様は一体どこにおられるのか、と思わざるを得ない困難に中
に在る私たちですが、十字架の言葉を通して神様に呼ばれる時、「神様はここに初
めから共におられたのだ」と気づくことが与えられると思います。自分が立ってい
るところが、神様がおられるところであった、ここが天(神)の国だったのか、と
。神様は私たちの下で支えておられます。そこで祈っておられます。
私たちが悲しむ時、神様が共におられます。慈しみ深い神様の中にあるのです。
神様が柔和であられること、助けるためにお働きくださっている義なる方であられ
ること、憐れみ深く清いお方であること、迫害を受けてもなお絶えず平和・平安の
ために尽力されていることを、私たちはイエス様によって知らされました。
私たちを囲んでいるのはこの神様です。詩編32編にはこうあります。「あなたは
わたしの隠れ家。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲ん
でくださる方。…主に信頼する者は慈しみに囲まれる」と。「わたしはあなたを目
覚めさせ 行くべき道を教えよう」と。神様は十字架を共に負い、目覚めさせられ
ます。神様があなたの道であり、あなたの道は神様の道であることを、十字架の言
によって教えられます。「我々は神の中に生き、動き、存在する」(使17:28)の
です。
パウロはこうも言います。「わたしたちは、この宝(=キリスト)を土の器の中
に持っている。その溢れる力は、わたしたちから出たのではなく、神のものである
。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらな
い。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこ
の身に負うて歩いている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためで
ある。わたしたち生きている者は、イエスの故に絶えず死に渡されている。それは
イエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」(Ⅱコリ4:
7-11 小川訳)と。この神様から離れることはありません。この神様の愛から引き
離すことはなにものもできないのです(ロマ8章)。
このことを詩編23編は「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは
帰り 生涯そこにとどまるであろう」と神様に向かって歌い返すのです。私が立っ
ているところ、わたしたちが包まれているところとは、ここです。
この神様の土台・岩(マタ7:24)の上に、神様の御慈しみの想い・願い・働き
をいただいている私たちは、その中に在って、神様から大切にされている自分と他
者を大切にして、助け合って歩む仕合わせ、主に在る祝福の中を歩むことができるのです。
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