2023年  1月 8日  主の洗礼(白)

      
聖書 :  イザヤ書               42章 1節~9節
            詩篇                 29編
            使徒言行録             10章 34節~43節
            マタイによる福音書         3章 13節~17節

      
説教 : 『 愛されし者 
                    光延博牧師 信徒代読
      教団讃美歌 :  411、 326、 263、 501

主イエスは私たちと共に生活・人生の最も深いところに立って生き抜かれました
。主の洗礼のお話に聞いてまいりましょう。ヨルダン川は、ガリラヤ湖の北約70km
のヘルモン山を源泉として、ガリラヤ湖を経て南の死海に至ります。全長約350km
とも言われます。洗礼者ヨハネが洗礼活動をしていたのは、「ヨルダン川東岸,死
海から北 9kmにある」場所のようです。死海は海抜マイナス430mと低い場所とのこ
とです。

 

大阪釜ヶ崎にて日雇い労働ぼ方々へ支援活動をしておられる本田哲郎神父は、主
が受けられた洗礼に想いを馳せながら、「洗礼」ということについて、このような
ことを話されています。「ヨルダン川というのは、海抜下、最初ガリラヤ湖の海抜
の下200m、それからずんずん下って行きつく先は有名な死海。…その死海。生き物
が全く棲めない所、汚れきった所。洗礼者ヨハネが洗礼運動を起こしたのは、ガリ
ラヤ湖のすぐ流れ口じゃないんです。ずーっと、ずーっと下って、もう少し行くと
荒れ野の先の死海なんです。一番汚れた所、そこでね、この水面の下に身を沈めよ
う、くぐらせよう、それが洗礼なんだ。つまり、人生の中で自分の担う苦しみ、寂
しさ、悔しさ、怒り、そんなものを受け止めて、そこで立ち上がる。これが洗礼な
んです」と。

 

ヨハネは「神様に向き直れ(立ち還れ)。神様のご支配はここに来ているのだか
ら」(32)と言って宣教し、人々に洗礼を授けました。人々は自分の「罪を告白
し」(36)ました。そこに主は来られます。ここに神様のご支配があり、神様が
罪を赦してくださっているという洗礼のしるしを受けられました。本田先生は、主
の洗礼に「一番汚れた所、人生の中で自分の担う苦しみ、寂しさ、悔しさ、怒り」
からの立ち上がりを見ておられます。最も深い所での主の洗礼と私たちすべての人
とは神様によって一つとされています。その時、天が主に向かって開きました。主
が私たちの上に立とうとせず、私たちと同じ最も低い所で共におられるということ
が、神様によしとされた出来事でした。深みを歩む救い主は人間から十字架に追い
やられてもなお神様に祝福されました。

 

そこで神様の御言葉が私たちすべてに響き渡りました。「これはわたしの愛する
子、わたしの心に適う者」と。この御言葉は詩編27節とイザヤ書421節に記さ
れているものでもあります。神の御子同時に神様のしもべである主が私たちに示さ
れています。イザヤ書421節以降にはこう書かれています。「見よ、わたしの僕
、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置
かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない
。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出
して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁
きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」と。神様の裁きとは救いの事で
すから、「裁き」は「救い」と読み替えてよいでしょう。人間の深みにおられ、そ
こで仕えておられる主と共に神様の霊があり、神様が共におられます。神様が私た
ちの深みでお支えくださっていることが主によって現れています。

 

さて、本田先生は先ほどのお話に続けてこう言われています。「だからパウロは
『洗礼は埋葬である』と書いた。遺体を墓に埋めるのを埋葬。キリストとともに埋
葬される。神の子キリストは復活された。埋葬された自分自身がその瞬間にキリス
トの復活の命に与る。これが本来の洗礼なんです」と。

 

パウロはこう書いています。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増
し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して
死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも
、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスへとバプテスマを受けたわたした
ちは、彼の死へとバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死
へのバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。(だが)それは、キリスト
が父の栄光(=力)によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたち
もまた、新しい生命(=復活の生)に生きるためである。すなわち、もしわたした
ちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にも
ひとしくなるであろう」(ローマ61-5小川修訳)と。

 

死と葬り(埋葬)は別の事です。「死んで葬られ」と使徒信条でも区別されます
。死があって葬りがあります。それと同じように、私たちが受けている洗礼という
ものは救われている事実を表すしるし(儀式としてのしるし)です。洗礼を受けた
ならば初めて救われる、ということは事実に即しません。人間が先で神様が後では
ないからです。神様の救い、恵みと祝福は先行しており、一切を凌駕して初めから
終わりまで与えられ続けます。これが神様の決定です。神様が主、私たちは従、こ
の順序は不可逆の神様の法です。洗礼とは救われている事実を受け入れて歩み出す
しるしです。そのしるしを思い起こすように礼拝堂には洗礼盤が置かれます。それ
を見るたびに、あるいはどこででも思い出すたびに、様々なことに翻弄され心乱れ
る私たちは、救いの神様の中にある私として、神様からの励ましを受けるよう定め
られています。慈愛なる神様によって罪の効力は死んでいます。慈しみなる神様の
ご支配はここにあり、私たちを復活者とされています。この事実から、自分の罪を
悔いて行為を改めてゆく歩みが、日々新たに祝福されていくでしょう。ルターや親
鸞聖人のように。

 

救い主は最も深い所から私たち一緒に復活なさっている、私たちは主と共に今復
活しています。罪は神様によって消されて赦され、復活者として、神様に愛されて
いる自他を大切にする新しい歩みに呼び出されているのです。そして、神様は主と
同様に私たちに、あなたは「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と今ここで
語っておられます。その中を歩んでまいりましょう。


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