たわわに実ったぶどうがあたり一面にぶらさがっている光景を思い浮かべますと神様の恵みに溢れ
るでしょう。紫色やうす緑色に、赤色や黄色などの色が混じって様々な色彩の織り成す美しさ、そこに
愛燦燦と照らす陽光を身に受け一粒ひとつぶが輝いている姿には幸せが溢れています。
「聖書では、ブドウは人類最初の栽培植物となっている。ブドウの木とイチジクの木の下に住むこと
は、幸福、平和、豊かさの象徴とされた」と解説されています。ぶどうの栽培に適した聖書の地域にあ
って、恵みの結実に圧倒されるのみならず、食べて飲んで、人々はその恩恵に与ってきました。
つるを一杯に伸ばして実をもたらしている中に、主イエスは神様の御手の中に実となった私たち一人
ひとりを見られていました。神様からいのちを与えられたかけがえのなさに圧倒されておられたのです
。地中に隠されている根こそいのちの根本である神様であることに眼を注ぎそこに生き抜かれました。
また、神様は支え成長を守ってくださる農夫としても、つまりいのちの根源であり支え手・導き手として
アッバの慈しみをいっぱいに感じておられたのです。
だから言われます。「わたしはぶどうの木(幹)、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっ
ており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたが
たは何もできないからである。…これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15章)と。
幹である主イエスは根である神様を明らかにされました。私たちは根なし草ではない、しっかりした根
がある存在である、一つの根から伸びた私たちは一つでありつながっていると、それを現わされた神
の御子主イエスによって私たちは知ったのです。私たちは主イエスと一緒に慈しみのアッバの中に在り
ます。
枝葉であり神様によって花や実が与えられる私たちの人生は祝福されています。様々な想いを抱え
た私たちです。これまでいろんなことがありました。喜びや嬉しさがあり、失敗、後悔、愛のない罪をお
かしたことがあります。また大切だと思うことに取り組んで来たことがあります。様々な人生の喜ばしく
ないと考える断片が脳裏によぎるとき暗い気持ちになることがあります。
罪は人を絶望まで連れ去ろうとしていくということがあるでしょう、聖書が言うように。罪が心を支配し
、それに囚われた歩みへと連れて行こうとします。その私たちを神様はご自身のぶどう園に呼ぶので
す。罪の赦しの世界へと。いのちの主とは誰であるか、誰が支配している人生か、誰が豊かにするの
か、誰が一人ひとりの人生を完成させるのかを明らかにするぶどう園へと。
自分の力で自分を完成させることなど不可能な、自分の力で生まれてきたのでも神様の御許に帰る
のでも、自分の力と計らいでこの身を動かしているのでもない私たちには自分の人生を自分の力で完
成させるなどということは決してできません。私たちの存在とそして人生も神様の恵みの結実です。私
たちはぶどう園の中に生を与えられました。しかし私たちはぶどう園に存在していることを忘れてしまい
ます。ぶどう園にいるのに、心はどこかに行ってしまうのです。
八木重吉さんは「心よ」という詩を書かれています「こころよ/では いっておいで/しかし/また も
どっておいでね/やっぱり/ここが いいのだに/こころよ/では 行っておいで」と。父の家を離れて
行く放蕩息子のような心、あるいは自分の根っこは自分であるとして浮遊するような心が表現されたも
のとして私には感じられます。そして、「やっぱり、ここがいいのだに」というぶどう園を慕う私もまたいる
ことを想います。それは神様が与えてくださっている心と言えるでしょう、私がそれを選ぶという意識を
超えて。それはいのちの事実という、もともと居る「領域」(国・支配)、今ここにあり、過去のすべてはそ
こにあり、将来も永遠にそこに置かれている、この愛なる神様から離れることなく私たちというものは在
るという神様の真実に由来すると思います。
この救いなる神様を認識する時、その光の中に包まれて「人は哀しいものですね、人はかよわいも
のですね、人はかわいいものですね」(『愛燦燦』小椋佳)と、御赦しの中にある私、いのちの根である
神様が一人ひとりを導きついには完成なさること、欠け多い私の欠けによって愛することができなかっ
たあの人の人生をも、私がではなく、真実の完成者こそが完成してくださるという、人の知恵ではわか
らない、大きな御心とその御働きの中にあることを、神様のぶどう園は明らかにするのです。この「い
のちの豊かさ」、その「今ここにある天の国、そしていつかその完全な天の国に帰ることに決定されて
いること」を象徴するぶどう園、そこに招き続ける神様のことを主イエスは今日私たちにお語りになって
おられます。
奪い去られることなく、離れることないあなたの脚下に厳然とある愛なる神様のご支配(国)にあるあ
なたのことを覚えよ、ぶどう園で一緒に働こう(一緒に生きていこう)と、共におられる神様は私たちが
それを認識することを望まれるのです。そのことを、「招きに応えてぶどう園に行く」という表現で語られ
ています。
社会的な・宗教的な人は神様が与えられた戒めを大切にし一生懸命神様に従おうとする非常にまじ
めな人たちでした。しかし彼らは傲慢と他者の身下しに陥ってしまっています。正しく生きるということに
「支配」されてしまうこと、自分の力で自分の救いを完成させようという、その完全に不可能な罠に陥っ
てしまうことがあります。その滅びをそのままにしてはおかない神様と主イエスが全身全霊で「ぶどう園
へ行きなさい」と幸福へと至らせるために命じ続けられるのです。
ファリサイ派的に自分は正しいと言う私と罪びとであることをよく知っている私の両面が私にあります
。神様と主イエスはその私たちがぶどう園の中神様の平安のうちに生きてほしいと望みいつでもいつ
までも待っていてくださいます。その招きにお応えさせていただきたいと思います。皆様に神様の幸い
が豊かにありますように。