2023年  10月 15日  聖霊降臨後第20主日

      聖書 :  イザヤ書              25章 1節~9節
            詩篇                23編
            フィリピの信徒への手紙     4章 1節~9節
            マタイよる福音書        22章 1節~14節

      説教 : 『 思いがけない招き 』
                 光延博牧師(静岡教会) 信徒代読
      教団讃美歌 :  517、 354、 301、 270

福音書の日課から御言葉を聞いてまいりましょう。7節には血なまぐさい記述があります。この内容は、紀元
70
年に起こったローマ帝国によるエルサレム陥落の事をマタイが盛り込んでいると考えられることは注意点とし
てまずは押さえておきたいと思います。80年代後半に書かれたと考えられるこの福音書は、あの悲惨な出来
事は神様を無視する自分たち民族に下された裁きとして受け止めていたようです。

さて、今日のお話は「天の国」のたとえ話です。「天の国」とは「神様のご支配」の事です。先週の日課と同
様に、私たちに対する神様のあきらめない愛のご支配とお働きかけがたとえられています。主イエス・キリストはこ
のような慈しみ深い神様が私たちと共にいてくださること、そして神様の慈しみのご支配の中に守られている私
たちのことを今日もまたお示しくださるのです。私たちはこの主のお語りかけを真摯に受け止め、主と共に、天の
国の中に在る者として歩みを進めてまいりたいと思います。

聖書から聞いてまいりましょう。3節には「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来
ようとしなかった」とあります。ユダヤでは、婚宴を催す際には、招待する側から招待される人に手紙や口頭であ
らかじめ招待の旨が伝えられ、そして当日もう一度呼びに行くという風習であったようです。その招きの呼びかけ
を受けても人々は来ようとせず、無視し、そればかりでなく遣わされた者たちを殺したとまで書かれています。

私たちが招待する側であったと考えてみたいと思います。祝宴に招待して、一緒に喜びの時を共有したいと
願いました。礼儀を尽くして丁寧に招待を行いました。しかし招待した人たちは無視します。遣わした人たちは
殺されました。なんと辛く悲しいことでしょうか。

それから王は、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と家来に命じました。そ
のとおり家来は「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」ので、「婚宴は客でいっぱいになった」とあります。
しかし、その中には「礼服」をつけていない人がいました。礼服は婚宴を催す主人によって用意されていたようで
す。ですからそれを着さえすればよかったのです。けれども故意に着ない人がいたというのです。どういう理由から
、王が用意している礼服をつけないという礼のないことをするのでしょうか。ここにも王への無視の心があります。
自分が中心になっているから、いわば自分が王のようになっているからではないでしょうか。

王にたとえられているのが、いのちの主体である神様です。私たちは神様がいのちを与えてくださった存在で
す。この身もあらゆる能力もすべて神様から与えられたものです。この事実を無視する当時のユダヤの人たちの
姿がこのたとえで描かれています。そしてその姿は、いのちの根源を忘れてしまう私たちの姿でもあります。つまり
神様のご支配、天の国に生かされているのにもかかわらず、神様の愛のご支配を無視してしまうのです。

神様は「友よ」と慈しみ深く、親しく呼びかけていてくださいます。そのような毎日の呼びかけを通して、神様
によって創造された私たちという存在はしっかりした根がある存在であること、神様がどんな時にも共にいてくださ
る存在であることを知らせようと働きかけてくださるのです。私たちのことを愛する子として慈しみ、この世の荒波
を歩む私たちを慰め励まそうと一生懸命に片時も離れずお働きくださっているのです。私たちの脚下にはこの神
の国と神様の義とがあるのです。

絶対に動かないこのいのちの岩のうえに私たちの人生の一切はあります。神様はこの事実を知って歩んでほ
しいのです。このいのちの岩は、私たちのありようによって左右されることは全くありません。「善人も悪人も」ない
のです。神様の慈しみの中、全被造物は神様の愛する子です。これが神様の御心です。いのちという根源に
は人類共通の、差別のないいのちの土台があるのです。

私たちは自分たちの行いによって神様の救いを左右させようとするのでしょうか。私が成したことをもって、神
様の恵みのみの礼服を無とし、自分の行いで救いを勝ち取ったと言って自分を誇るのでしょうか。その「自分」と
はすべて神様から与えられた存在と能力であるのに、自分の力で生まれ、生きていて、よい行いをこの自分こそ
がしたのだと言い張るのでしょうか。自分は自分の力で生きているという態度こそが、神様の御前で、用意され
た礼服を着ないということです。私たちは事実、自分の身や持っていると考えている能力すべては自分で創造
したものはただの一つもありません。ただ神様の愛と慈しみのお働きが結実したのが私たちなのです。

この事実に眼が開かれる時、天の国の中に存在している自分を見出す恵みをいただきます。神様の愛のう
ちに包まれている私たちという本当の姿が現れて来るのです。それを知らせて励ますための愛をあきらめない神
様が今お働きくださっています。私たちが無視してもあきらめずに語りかけ続けてくださるのです。

お語りかけを受け止める時、神様が創造されたいのちの輝きは露わにされます。神様のいのちのかけがえの
なさ、その守りと救いの導きの中に在る私たちが、見えるものではなく見えないけれども確実なお働きが立ち現
れて来るのです。

ここに私たちの根があります。無条件に愛していてくださる神様から愛に根差した交わりが創造されて来ます
。花や実で優劣を競ったりする必要はもともとありません。根が神様であり、幹が主イエス・キリストであり、私た
ち枝葉のつける花や実は神様がつけられたものです。様々な花や実は御心とお働きが結実したものです。相
互に愛でることができます。補い合い、助け合う仕合わせはその根源から生じて来るのです。

あしもとにある天の国。ここから祝福が泉となって湧き出して来ます。新しい一週間は神様の祝福の一週間
です。この世には多くの困難があります。私たちの罪深さがあります。しかしけっして消え去ることのないご真実
が私たちをまるごと包んでいます。その中で、与えられた賜物を活かして、神様が愛してくださっているようにお互
いを大切にし、祈り合って歩みを進めてまいりましょう。皆様に神様の平安がありますように。

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