2023年  10月 22日  聖霊降臨後第21主日

      聖書 :  イザヤ書              45章 1節~7節
            詩篇                96編 1節~9節
            テサロニケの信徒への手紙   1章 1節~10節
            マタイよる福音書        22章 15節~22節

      説教 : 『 神さまから離れない 』
                 信徒のための説教手引き 信徒代読
      教団讃美歌 :  326、 271、 512、 301

新しい商品が出ると、その案内やセールスのために電話がかかってきたり営業マンが尋ねてきたりします。こう
いう仕事はいつでも歓迎されるわけではないですし、時にはひどい言葉で断られたりして辛いだろうなと思います
。彼らは少しでも相手に好印象をもたれようと、大変丁寧な言葉遣いをします。しかし時にはそれが度が過ぎ
て、その人に似合わない、また語られる自分に似合わないほどの丁寧さで、かえって不快な気持ちになることが
あります。

「慇懃」という言葉があります。人に対する態度が丁寧で礼儀正しいことです。しかし本心からではなく、度
が過ぎて丁寧な態度は「慇懃無礼」としてかえって相手に嫌味を与えます。心がそこにない言葉は、相手の心
に響くはずはなく空しく通り過ぎ、時には人を傷つけるのです。

さて、イエス様は神殿の境内で祭司長、民の長老、ファリサイ派の人々に対してたとえを語られらていました
。そのたとえに込められた厳しい言葉が自分たちに向けられていることに気づいたパリサイ派の人々は、いったん
その場を離れ、どうしたらイエス様を陥れることが出来るか相談します。そしてヘロデ派の人々を伴い、再びイエ
ス様の所に来て尋ねるのです。彼らが持ち出した話題は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」かど
うか、ということでした。ファリサイ派とはユダヤ教のグループの一つで、律法を厳格に守る人たちです。ファリサイと
いう言葉には「分離する」という意味があり、彼らは他の人とは区別された特別な者であるという自負心があり
ました。イエス様への最初の挨拶は「人々を分け隔てなさらないからです」という言葉は、ヘロデ派の人々がパリ
サイ派に込めた皮肉だったかもしれません。ファリサイ派は熱心で厳格な信仰をもっていましたから、異教徒で
あるローマが自分たちを支配することには反感を持っていました。ゆえに税金を納めることも彼らにとっては屈辱
的なことだったのです。ヘロデ派はヘロデ王家を信奉するグループで、ローマ帝国にこびることで権力と利益を得
ようとしていました。従ってローマに税金を納めることなど特に抵抗はなかったと思います。このようにローマに対
する感情は全く異なっていましたが、イエス様の存在が目障りで排除したいという思い出は一致していたのです。

彼らが持ち出した税金の問題は、実に巧妙で厄介な問題でした。イエス様が税金を納めることが律法に適
ってるかと言うならば、イエス様に反ローマ感情のリーダーシップを期待していた一般民衆が失望を味わうことは
間違いありません。反対に、もし税金おw納めることが正しくないと言おうものなら、すぐさまローマに反逆するも
のとして訴えられかねなかったのです。彼らはイエス様が何とお答えになるか、固唾をのんで待ったことでしょう。

そこでイエス様は「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金を納めるお金を見せなさい」と言って、
デナリオン銀貨を持ってこさせました。さらに人々に銀貨に刻まれている像を示して「これは、だれの肖像と銘か
」と尋ねられます。彼らが「皇帝のものです」と答えると、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさ
い」と言われたのです。この答えに人々は、大変驚きました。それは対立する問いを対立しない巧みさで答えら
れただけではなく、イエス様を試みようとした人々自身の有様を問う言葉であったからです。

この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、一見「この世の問題と信仰の問題と
を区別しなさい」と言われているように聞こえます。しかしそうではありません。なぜなら、神様は世界のすべての
支配者ですし、人の内面だけに関わっておられるのではないからです。さらに私たちが日毎に出会うことがらは、
そう簡単に信仰と関わることとそうでないことを区別できないからです。社会と政治の問題も、政教分離を原則
にのっとって直接に信仰を持ち出さないしても、信仰に基づいた判断は常に求められるのです。むしろ、「皇帝
のもの」と「神のもの」という言葉によって、あなたたちはどちらに属するものか、どこに立って生きるのかを問われて
いるのです。創世記127節には「神はご自分にかたどって人を創造された。」とあります。人は神様の型どり
として創造されました。それは人が神様に属するものであり、神様と一体であるべきものとして造られていること
を教えています。

イエス様は試みる人々に向かって「偽善者よ」と呼ばれます。「偽善者たち」2218この言葉は、単なる「
偽善」を表すだけでなく、神様から離れた者を表しています。同じマタイ福音書の157~8節には「偽善者
たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわ
たしから遠く離れている。」と言われているからです。イエス様を試みる者たちは、自分たちが神にかたどって創造
された者であることを忘れ、神に属する者であることを忘れ、神から離れた者(偽善者)となっていたのです。世
の権力や利益を得ることを命の目的として、そこにあるはかなさや空しさに気づかないでいるのです。宗教的な
装いをしながら、自分たちを特別な者、神に一番近いと思い込むことによって、その実、一番遠く離れているの
です。

しかし、イエス様は罪のゆえに神から離れた者のところにおいでになりました。どこまでも彼らを捜し、失われた
者を見つけるためにおいでになりました。それは、ただ地上の歩みの上だけでなく、どこにあってもいつの時代に
おいても、自ら近づいて下さるのです。イエス様を試みる人々は、そのイエス様の愛を知ることが出来ませんでし
た。議論の中で驚きと敗北感だけを感じて、「イエスをその場に残して立ち去」り、再び神様から離れてしまった
のです。

私たちは直接にイエス様を試みることはないかもしれません。しかし、神様から離れるという意味では、いつ
偽善者となるかもしれません。自分は特別、自分は神様さんしで生きられる、そのような思いの中で、こころを
伴わないままで讃美歌を歌い、祈っているかもしれません。しかし罪にまみれ、限界と弱さに満ちた私たちが、
神様無しに生きることが出来るはずがありません。イエス様はそのような私たちであっても、私たちを求め、私た
ちに向かい、私たちと共にいてくださいます。私たちはこの愛に気が付きたいのです。そしてこの愛に気が付くとき
には、どんなに離れていても再び神様に受け入れてもらえることを喜びたいのです。

<祈り>すべてを造り、ご支配なさる神さま、私たちはめまぐるしく移り行く社会の中で、確かなものを悟る心の
目を失っています。私たちに真実を教えてください。私たちがあなたなしに生きることが出来ないことを愛をもって
教えてください。そして、私たちが真心をもって礼拝し、従うことが出来るように真の理解と信仰を与えてください
。このお祈りを、主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン

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