2023年  10月 29日  宗教改革主日

      聖書 :  エレミヤ書             31章 31節~34節
            詩篇                46編
            ローマの信徒への手紙      3章 19節~29節
            ヨハネよる福音書        8章 31節~36節

      説教 : 『 真理 』
                 光延博牧師(静岡教会) 信徒代読
      教会讃美歌 :  131、 460、 314、 374

主イエスは言われます。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷であ」り、そのような状態のとき人は本当の自由を
歩むことができない、と。キリストのうちに留まる、つまり救い主の中に存在させられていることを認識するとき、人
は本当の自由の中を歩むことができる、と。その根源にあるのが、父なる神様のご愛の真実であり、それが真理
です。「ここも神のみ国なれば」という讃美歌のとおり、この世界は愛なる「神様のご支配」(天の国)の場で
す。永遠に生も死も私たちはその中に在ります。そして主イエスはまさにアッバ(とうちゃん・父なる神)にいだ
かれたその天の国の中で、真の愛と自由のうちに生き抜かれた方だったのです。真理を示された主イエスの言
葉に留まって私たちが本当の自由の中を歩んでゆくことを神様は求めていらっしゃいます。

今日は宗教改革を記念して守っている礼拝です。私たちの先生マルティン・ルターが15171031日に
95箇条の提題』を公開し、人々と討論することを呼びかけたことを宗教改革の始まりとして覚えています。徳
善義和先生の名著『キリスト者の自由 全訳と吟味―自由と愛に生きる―』(新地書房、1985年)を手が
かりにルター先生が教えてくださる、真理と自由に心を向けてまいりましょう。

14831110日にルター先生は生まれました。親しい友人の死に接したこと、大けが、落雷などによって
、死に対する恐怖を覚え、確かな救いを求めて22歳の時、アウグスティヌス隠修修道会戒律厳守派に入りま
す。厳しい戒律を守り朝から晩まで徹底的に御心を生きる修行に励みました。その頃のことが徳善先生の本
に書かれています。「若い日、大学での始まったばかりの法学の勉強を中断して修道院に入った時の彼の問い
は、『わたしはいかにして恵みの神を獲得するか』であった。…『私だ、私が問題だ。私は獲得したいのだ、何と
してでも獲得したいのだ。我と我が手でかちとりたいのだ。それに、それは、できるはずだ』」と。自らの意志と努
力で恵みの神のところまでのぼって行き、救いを勝ち取るのだ、という一心で励みました。しかし、どんなに善い
行いに励んでも、恵みの神を見出すことはできません。細かい罪まで見逃さず責め立てるような厳しい怒りの神
しか見えません。赦されていると感じられず平安はありませんでした。

聖書に向かい御心を求め続ける日々の中で、あるとき眼が開かれます。塔の体験と呼ばれるものです。救い
の中に置かれている自分に開眼しました。そのときのことをこうルター先生は言っています。「今や私は全く新しく
生まれたように感じた。戸は私の前に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示
した」と。自分の力で神様の救いを勝ち取ることは不可能であり、絶望しかないことが分かりました。「『私が自
分の力や努力で恵みの神を獲得する』のではなくて、『絶望している罪人である私のところに、恵みの神がイエ
ス・キリストにおいて下りてきて、私をとらえ、私を救う』ことを、まさしく福音として、全存在をもって受けとるところ
に、彼の宗教的転回があり、宗教改革の原点があった」のです。

罪を犯す者はだれでも罪の奴隷であ」り、そこに自由はない、ということについて、罪とは何かについてルター
先生はどう捉えていたのでしょうか。「罪」とは、「徹頭徹尾『自己を愛する事こと』であり、結局はすべてのことを
『自己自身のうちへと歪曲させること』にほかならない」と人間の罪の姿・肉の思いについて徳善先生は説明し
、そしてルター先生の言葉を引用します。「肉の思いとは、肉、すなわち自己自身を享楽し、他のいっさいを、
神ご自身でさえをも利用する欲、また、自己中心の意志をさし、いっさいのことにおいて自己と自己のものを求
めるのである」と。それは、「神を無視し、人間の思いや営みを確立すること、すなわち『神を無とすること』という
人間本来の―これこそ罪そのものの姿である」。自分の力に依り頼み、神を無とする人間の罪をルター先生は
指摘しています。自己中心の思いの中で自分の救いに執着していたルター先生自身の経験から出た言葉だ
と思います。徹底的にやった人だからこそ見えて来た罪の人間の姿だったでしょう。私たちはここで、自己への
執着が神様の救いを阻害してしまうことを覚えたいと思います。

 「人間の愛は、対象が自分にとって益となり、好ましいかぎりにおいて成立している。つまり、人間の愛は、愛
する自己が中心であって、愛の対象は自己実現の手段にしかすぎない。肉の欲、すなわち自己追及の念い
の愛であり、エロスの愛である。これに対して、神の愛は、対象がどのようであっても、益をもたらさないどころか、
害をもたらすようなものであっても、それを愛する対象とする。つまり神の愛は、愛する対象の益を求める愛であ
り、愛する対象を中心とした愛である。愛する対象の生の実現のためには自らを―そのみ子キリストにおいて―
投げだすこともする愛である。それはまさしく、人間のための愛であり、人間のところに降ってくるアガペーの愛で
ある。このことをルターは洞察しているのである」と徳善先生は解説されています。

全被造物はこのアガペーに包まれています。これが真理であり、御心です。この真理に留まって生き抜かれた
主イエスに留まること、ここにまことの自由があります。自己への執着から解放され、真理の中に生かされてゆく
自由さと平安があります。自分の力で救いを勝ち取る必要は全くありません。慈しみの神様にいだかれている
愛された子として、真理として万人に注がれ続けるアガペーによって神様のいのちが成った自分と他者を、一人
ひとりを、見ることができる天の国がここにあります。ルター先生はこの真実に眼を開かせられました。罪の人間
の姿と全く関係なく、動くことなく厳然として与え続けてくださる神様の救いが神様の恵みのみによって与えられ
ているという「天の国」に眼が開かれたのです。そして『キリスト者の自由』を書いてその自由を示したのです。

私たちは自分の救いのためには何かを成し遂げなければならないことはありません。ここは自分が支配する世
界ではなく、慈しみ深い「神様のご支配」(天の国)の世界です。ここは、神様の恵みのみによって罪が赦さ
れている世界です。慈しみ深い神様によって罪が消されている世界、つまり罪を犯すしかない私たちの罪が消
されてしまっている天の国です。ここに復活への扉がいつでも開かれている事実があります。この神様の真理を
私たちはしっかりと心に覚えたいと思います。永遠に神様は私たちを自由にされておられます。ここに私たちは「
はい」とお応えし受け入れること、主イエスと共にそこに留まることを大切にしたいと思います。

自分の力に依り頼んでいく人の世とその考え方がこの世を暗くしているのを私たちの目は見ています。人間中
心主義によって、いのちを育んでくれる自然を荒廃させ、互いに力を誇示し合い、疎外し合っています。戦争を
しています。いのちの根源なる神様を無にしています。しかし、御恵みによって救いの中に置かれています。私
たちは絶えず神様に立ち還ってゆきたいと思います。御許には、愛されていること、与えられている賜物を活か
してできることをできるだけしお互いを大切にし合える幸いと自由があるのです。皆様に神様の祝福が豊かにあ
りますようにお祈りいたします。

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